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2026年9月6日(日)

【聖霊降臨節 第16主日


礼拝説教「回復の道がある」 


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 13:36-38


<讃美歌>

(21)26,18,142,197,64,29

  「主よ、どこへ行かれるのですか。」(36)弟子であるシモン・ペトロが主イエスにたずねています。この言葉は、キリスト教会が深く心にとめてきた言葉です。「主よ、どこへ行かれるのですか。」なぜ、ペトロがたずねたのか、それは、主イエスが弟子たちに語られたからです。33節を読み返します。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを探すだろう。『わたしが行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」

 「わたしが行く所にあなたがたは来ることができない」と主イエスから言われたとき、私どもがそこにいたらどう思ったでしょうか。ペトロはどうしても受けとめることができなかったのでしょう。それは主イエスにどこまでもついて行きたかったのでしょうし、この方のためなら、どんな犠牲も惜しくはないと思っていたのではないか。ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(37)と、その思いを主イエスに告白するのですが、すべてをご存知である主イエスは、ペトロに語りかけられました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(38)

 主イエスがペトロに告げられた御言葉、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」は、ペトロの現実を告げた、厳しい御言葉です。裁きの言葉と言っていいと思います。ペトロはすぐには受けとめきれなかったはずです。主イエスを三度も知らないと言ってしまう、そのことが現実のものとなったとき、自分に絶望したのではないか。しかし、主イエスの御言葉は、ペトロだけの問題ではないのです。

 人はどんなに、主イエスのことを信じて、命をささげるほどの覚悟をしても、それだけでは続かないことを、主イエスは語っておられるのではないでしょうか。そのことは、確かさは私どもの内にあるのではなくて、私どもを愛して導いてくださる主に、確かさがあるということです。私どもの内に確かさがないことは、厳しい裁きの言葉ですがまた、神の愛の御言葉です。

 主イエスはペトロに約束されました。「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる。」(36)「後でついて来ることになる」とは、三度も主イエスを知らないとさえ言ってしまうペトロにも、回復の道があることを約束してくださったのです。

 どのようにペトロに回復の道が与えられたのでしょうか。ヨハネによる福音書の最後の21章には、復活された主イエス・キリストが、ペトロたちに会いに行かれたことが記されています。十字架に命をささげられたとき、弟子たちはついて行くことはできなかったのです。しかし復活された後も、ペトロたちは主にお会いしながら、漁師にもどっていた。そんな弟子たちのところへ主イエスが行かれたのは、三度目でした。「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(21:14)とヨハネは記しています。

そのときには、夜通し漁をしても魚がとれなかった、そこへ主イエスが来られたのですが、すぐには主イエスだと分からなかったのです。そして舟の右側に網を打つように言われて、そのようにすると網を引き揚げることができないほどに魚がとれました。そのときに、主イエスだと分かった。153匹もの大きな魚がとれた、とヨハネは記していますが、弟子たちにとって、忘れることができない出来事となったのです。

 さらにペトロにとっても、忘れることがない、心に刻む出来事が与えられました。それは、主イエスから三度も「わたしを愛しているか」と問われたことです。「わたしを愛しているか」と問われたら、私どもはどう答えるでしょうか。ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15)告白しました。「あなたがご存じです」と語るペトロは、主イエスに確かさを置いていたのです。

さらに主イエスはペトロに、こう言われました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる。」(18)ヨハネは「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(19)と語りました。

 思い起こす、有名な小説があります。ヘンリク・シェンキェヴィチが書いた、クォ・ヴァディスという小説です。シェンキェヴィチは1905年にノーベル文学賞を受賞しますが、1896年にクォ・ヴァディスを記しました。クォ・ヴァディスは、訳しますと、「どこへ行かれるのですか」という意味です。お気づきの方もあると思いますが、ペトロが今日の箇所で、「主よ、どこへ行かれるのですか」と主イエスにたずねた言葉が、小説の題名にもなっていて、小説の中にも出てきます。クォ・ヴァディス・ドミネ、「主よ、どこへ行かれるのですか」とペトロは、小説のどのような場面で問うたのでしょうか。

 小説の舞台は、ローマ皇帝ネロの時代で、キリスト者への迫害の火の手が燃え盛っている頃です。ペトロにも、迫害が及んで、命を奪われる危険が迫る中、まわりの弟子たちの説得を受けて、ペトロはしぶしぶローマを離れることにしました。

 私ごとですが、神学生の2年のとき、学生たちみんなで劇を演じて、教授たちや宣教師、学生たちに見てもらうことがありました。その劇はまさにクォ・ヴァディスで、私は主役のペトロ役でした。劇でのペトロは年配者でしたから、劇団員をかつてしていた3年生の先輩が、顔にしわを書いたりして、それらしくしてくれました。そのペトロは、劇のクライマックスで、若い弟子に助けられながら杖を突いて歩き、迫害を逃れてローマから離れて行きます。その道すがら、思いがけないことに、ペトロは主イエスに出会うのです。まぶしい光の中での出来事だったと思います。

 ペトロは、クォ・ヴァディス・ドミネ、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問うのですが、主イエスは言われました。「あなたがローマを離れるなら、わたしがローマへ行って、再び十字架にかかって命をささげる。」ペトロは主イエスにひれ伏して赦しを願い、自分が間違っていたことを主に告白するのです。ローマへと向きを変えて決意を固めたとき、主イエスは見えなくなっていました。戻ろうとするペトロに、若い弟子が、ペトロ先生、どこへ行かれるのですか、とたずねます。そのときペトロが「ローマへ」と言って劇は閉じました。ペトロは、実際、ローマで殉教したのです。64年頃と言われます。


 かつて主イエスはペトロに、三度も「わたしを愛しているか」(17)と問われたのですが、ペトロは悲しくなったのです。おそらく三度も主イエスを知らないと言ったことを思い起こして、改めて、主イエスにこそ確かさがあることを心に刻んだはずです。私どもも、自分に悲しくなることがあるかもしれない、しかしそのときにこそ、「わたしを愛しているか」と問いかけてくださる主イエスを信じて、従っていくことができるのです。自分の決意や信仰心が出発点になるのではなくて、わたしを愛して従ってくるようにと、招いてくださる主の導きが、私どものスタートであり、再スタートとしてくださるのです。その意味では私どもは礼拝の度毎に、「わたしを愛しているか」と言ってくださる主イエスから、回復の道を与えられているのではないでしょうか。

 

 
 
 

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