2026年8月23日(日)
- shirasagichurch
- 8月23日
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【聖霊降臨節 第14主日】
礼拝説教 「あとで分かるようになる」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 13:1-20
<讃美歌>
(21)26,9,156,481,64,29
ヨハネによる福音書13章の主の洗足の箇所を与えられています。ヨハネによる福音書を学び始めたときから、主の洗足の御言葉を味わうことを心待ちにしていました。この13章から、ヨハネによる福音書のクライマックスとも言うべき、最後の晩餐での出来事、それは洗足に始まって、弟子たちに語り聞かせた御言葉、また主イエスの祈りがささげられます。そして、主の十字架の苦難があり、復活の出来事が記されていきます。その始まりに、主イエスが弟子たちの足を洗われました。主イエスが、その行為と御言葉をもって与えようとなさったことに、思いを深めていきましょう。
主イエスはここで、弟子たちの足を洗うために、ひざまずいておられます。実際にひざまずくことを思い浮かべますと、私どもはひざまずくことは日頃余りないかもしれません。
カトリック教会では、礼拝堂のベンチの前の席に、ひざまずく板が足元にあります。あるいは、恵みの座というものが礼拝堂にある教会では、聖餐のときに前に出てひざまずいて聖餐を受けます。友人の牧師が遣わされている神戸の教会に行ったとき、古い会堂に恵みの座があって、ここにひざまずいて聖餐を受けると教えてもらいました。そのとき、その友人の牧師が言ったのですが、杖を突いておられる方も、椅子をお勧めしても何とかひざまずかれるそうです。お気持ちが分かる気がしました。自分はひざまずく聖餐の習慣はないのですが、もしひざまずいて受けることができるなら、可能な限りひざまずきたいと思いました。
私どもも、この礼拝堂でひざまずくことがあります。どういうときかと言いますと、それは洗礼を授けられるときです。私も、洗礼の準備のために、礼拝堂で、ここでひざまずいて洗礼を授けてもらう、と私が先にひざまずいて見本を示します。そのときに、毎回、主の御前にひざまずくように恵まれた思いに心が動きます。主の御前にひざまずくのは、幸いなことですし、私どもは、主の前にひざまずくべき存在です。
しかし最後の晩餐のときは、主イエスが、弟子たちの前にひざまずいておられます。これは考えられないことです。普通に考えても、主人が弟子の前に、ひざまずくことは考えられないことです。
まして主なる神、救い主が、弟子たちの前に、あるいは私どもの前にひざまずいて何かをなさることは、およそ考えられない、あってはならないことです。しかも、足を洗っておられます。これは、当時の習慣では、奴隷のすることです。弟子という言葉は、原語では奴隷という意味でもあります。弟子たちが主イエスに対してするべきことで、当時の奴隷でも、身分の低い者がしていたようです。
主人が、逆に奴隷の足を洗うなどは、まったくありえないことで、それがここで起こっています。 その主イエスの洗足は、洗足よりもさらにあり得ない、主イエスの十字架を指し示しているのです。
神の独り子、主なる神、救い主が、十字架にかけられるなど、あり得ないことの極限を超えてしまった話です。しかしそこに、神の計画、知恵があって、主は私どものために裁きを受け、痛みを受けて救いの道をひらいてくださいました。
そのような主イエスの十字架のあり得なさを思いめぐらします。そのあり得なさは、主イエスが私どもの前に、ひざまずいて足を洗ってくださることを超えた、あり得なさです。あり得ない恵みであります。それほどのことだと思いを深めて心に刻みましょう。
そして、主イエスは、自分にならうように模範、見本を示した、と言われます。私どもも、互いに足を洗い合うように、と言われます。互いの前にひざまずくようにして仕え合うことです。具体的には、主イエスはどのように仕え合うことを言われたのでしょうか。
主イエスは、弟子たちの足を洗われました。その時に、この箇所の1節に「世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とありますが、その弟子たちの中にイスカリオテのユダも含まれています。ですから、やがて裏切るユダの足も洗っておられるのです。御自分を裏切る者の足をさえ洗われました。そこに、主イエスの愛があります。ペトロたちは、主の愛に触れているのですが、そのとき十分に分かったのでしょうか。
ペトロに対して主イエスは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7)と言われました。ペトロは、後で、この上なく愛し抜かれた主の愛が分かるようになったはずです。私どもはどうでしょうか。そのときは十分に分からなかったけれども、後で分かるようになった経験を持っている方もあるのではないでしょうか。考えてみれば私どもは、いつも十分には分からずに、あとからさらに知っていくことがほとんどかもしれません。とくに主の愛、主の赦しについては、どれほど自分が赦されているか、赦されて受け入れられてきたか、主の愛を知り続けているのではないでしょうか。主は、主の愛を知ることができるよう、教え続けてくださいます。
主イエスの愛に、どれだけ私どもは応えているでしょうか。あるいは、互いに足を洗い合うようにして、赦し合い、仕え合うことを思うときに、私どもは、仕えることができなくて裁いてしまうことがあります。そのときに、主が赦してくださる、主の愛の尊さを知るのではないでしょうか。
主イエスは19節で「『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」と言われました。「わたしはある」という御言葉は、出エジプト記の3章14節で、主なる神がモーセに語りかけられた御言葉です。モーセが旧約の民をエジプトから導き出す指導者として召されたときのことです。人々に主なる神をどう伝えるのか、と主にたずねたときの答えでした。
とこしえに存在され、私どもの命、救いの源として、滅びない方が「わたしはある」と言われた。主イエスは、御自身を「わたしはある」という者だと語りかけられたのです。これは、とこしえに存在されるということだけではないのです。どういうことでしょうか。主イエスは19節で「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」と言われた、事が起こったときとは、主の十字架と復活のことです。主の十字架は、私どもへの神の裁きが過ぎ越したことです。そのことは、モーセが出エジプトのとき、神の裁きが過ぎ越して、エジプトを出発することができたことと重なります。その出エジプトのときの過越しは、主イエスの犠牲による救いを指し示しているのです。「事が起こったとき」、十字架の上に神の愛があらわされ、神の栄光が輝きました。
その神の輝き、神の愛の輝きが、洗足のときにすでにあらわれているのです。
主イエスが洗足のとき、裏切る者の足さえも洗って、最後まで愛し抜かれたのですから、主の愛を信じて、主に赦しを求めて祈ることができます。主イエスの愛を信じて、自らの赦しを求めると共に、自らも赦しに生きるように、主の愛を求めるのです。主の愛を求めて祈るときに、裏切る者の足をも心を込めて洗われた主イエスの愛が、私どもを生かして動かすことを信じていきましょう。





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