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2026年8月16日(日)

【聖霊降臨節 第13主日


礼拝説教 「裁くためではなく救うため」 


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 12:44-50


<讃美歌>

(21)26,2,132,531,64,29

 

 ヨハネによる福音書を少しずつ紐解(ひもと)きながら、神の言葉を聞いてきましたが、この朝で12章を終えることになります。13章には、主イエスが弟子たちの足を洗われたことが記されています。それは最後の晩餐の席でのことですから、ヨハネ福音書のクライマックス、頂点とも言うべき箇所が始まります。その直前の12章44節以下は、とても大切な箇所で、最終章へのひとつの締めくくりのような言葉が記されています。

 44節に「イエスは叫んで、こう言われた。」とあります。主イエスが全霊全身を込めて、ほとばしり出るように語られた言葉です。子どものとき、親から叱(しか)られるときにはよく、目の前に座らされて目を見ながら、一言一言しっかり語り聞かされたことを思い起こします。みなさんの中にも子どもの頃、叱られたときに、愛情を感じながら、話を聞いたことを思い出される方もあるのではないでしょうか。

 神の愛によって語りかける主イエスを、ヨハネは光として記しました。主イエス・キリストは私どもの光です。光である主イエスは、私どもを光の子となるように招いておられます。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(36)と今もなお、招いておられます。

 光である主イエスの御言葉を聞くことは、光に照らされることですが、それはある意味で、御言葉に照らし出されて裁かれることです。しかし、ただ裁かれるのではなくて、御言葉に愛情を感じながら、闇を光に変えてくださる主に導かれていくのです。

 そのような主イエスの愛を感じる御言葉が47節にあります。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」みなさんの中には、「それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。」とあるから、主イエスの御言葉を守らなくていいんだ、と受けとめる方はいないと思います。むしろ、御言葉に聞き従おうとしても、守ることができない私どもを赦して、守ることができるように導き続けてくださる主の憐れみを受けとられるのではないでしょうか。

 主イエスが、御自身の御言葉を私どもが守ることを願っておられるのは言うまでもないことです。それは、私どもに神の命が与えられて、生きていくことができるからです。

50節に「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」とあります。

 父の命令とは、主イエス・キリストの父なる神の命令で、それは御言葉によって語りかけられる命令です。「わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである」とありますから、主イエスの命令は永遠の命である、と私どもが告白することができるのです。主イエスの命令、御言葉に聞き従おうと生きるところに、永遠の命があるのです。

 ここで、「父の命令」と訳されている「命令」という言葉は、「掟(おきて)」あるいは「戒め」と訳することができます。同じ言葉が、13章の主イエスの洗足のあとで語られた御言葉にあります。「あなたがたに新しい掟を与える」(34)と言われた「掟」が「父の命令」と同じ言葉です。ですから、「父の掟は永遠の命である」、としてもらった方がよかったと思っています。

 主イエスは、どのような掟を命じておられるでしょうか。それは父の掟であり、主イエスの御言葉による掟であって、その御言葉に生きようとするところに、永遠の命があるのです。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」この掟、恵みの御言葉に私どもがすでに生きていることを、信じて受けとっていくことができます。とくに、礼拝をささげるときに、互いを思いやることが見えるのではないか。祈祷会で祈るときに、互いを覚えて祈っていることは、「互いに愛し合いなさい」と命じられた主イエスの御言葉に生きているのです。「互いに愛し合いなさい」と言われたときに、自らの愛の足らなさを思うことはむしろ、健全であると思います。謙遜に生きる必要があります。愛の足らなさを感じるときに、「互いに愛し合いなさい」と言われた主イエスに愛の源があることを信じて、主イエスの命令、掟は永遠の命であることを、知り続けようではありませんか。

 

 さて、主イエスは「わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」と言われたのですが、続く48節の言葉は、うまくつながらないと思われた方があるかもしれません。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」(48)

 どう受けとめたらいいのでしょうか。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者」とは、明らかに主イエスを否定して拒む者のことですが、そのような者が見捨てられるというのでしょうか。そうではなく、語られた御言葉は最後まで招き続けるのです。それは、御言葉に照らし出して裁くことは、救いへと招くためです。裁きの中に救いがあり、救いへと招き続けて裁くということです。「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」という主イエスの御言葉にも、どこまでも招き続ける神の愛が示されているのではないでしょうか。

 ですから、神の愛を信じて、「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」という主イエスの御言葉に生きていきましょう。主イエスの御言葉に生きて、互いに愛し合うことに、永遠の命があることを、礼拝を始まりとして、知り続けていきましょう。

 

 
 
 

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