2026年8月30日(日)
- shirasagichurch
- 8月30日
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【聖霊降臨節 第15主日】
礼拝説教「新しい掟」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 13:21-35
<讃美歌>
(21)26,10,55,417,64,29
与えられています箇所は、イスカリオテのユダの裏切りが記されて、そのあとで「あなたがたに新しい掟を与える」(34)と、主イエスが語りかけられています。そのユダのことを主イエスが話されたとき、「心を騒がせ、断言された」(21)とあります。「断言された」という言葉は、証しされた、という意味ですが、決してよいことを話されたのではなく、心を騒がせることで、最も近くにいた弟子の裏切りのことでした。13章の洗足の箇所にあるように、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1)からこそ、心を痛められたのです。その愛は、ユダにも向けられていました。しかし、彼は主の愛を拒んでしまったのです。その先に、空しい道が待っており、彼自身が苦しみ抜くことを、主イエスこそがご存知でありました。
主イエスが心を騒がせられたことを、さらにご一緒に思いめぐらしましょう。同じ言葉が、12章27節にあります。「今、わたしは心騒ぐ」と言われて、一粒の麦(24)としての十字架への歩みに身をゆだねていかれました。罪なきお方が、私どもの救いのために、罪人として神の裁きを受けることは、身もだえるような思いを抱かれて「今、わたしは心騒ぐ」と言われたのです。そのとき、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(32)と言われました。その「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われた「すべての人」にユダは入っているでしょうか。
ある有名なカトリック教会の神学者の講演を聞いたとき、どういう話の流れで言われたか、よく覚えていないのですが、主イエスの深い愛を語っておられたと思います。そして私どもが天国に行ったとき、イスカリオテのユダがそこに座っていたとしても不思議ではない、という意味のことを言われました。確かにユダは裏切ってしまったけれども、そのユダをも、最後まで主イエスは愛し抜かれたのですから、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われた主の愛は、ユダにも向けられているのです。
主の愛に比べると、私自身、自分が恥ずかしくなることがありますが、簡単にあきらめてしまうことがあります。敵を愛された主の愛から、ほど遠いところに生きていることを知らされることがあるということです。
CSで、礼拝のときに、主の祈りを祈りますが、口語の祈りです。カトリック教会と聖公会で訳された祈りですが、とても聖書の原語に忠実だと思います。その主の祈りのなかで「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と祈ります。しばしば私どもは、私自身そうですが、ゆるせない思いの中で苦しむことがあります。そのようなときには、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と祈ってはいけないのでしょうか。決してそうではないのです。主イエスが、「こう祈りなさい」(マタイ6:9)と言われたとき、私どもの罪深さをすべてご存知でした。祈りですから、たとえゆるせないようなときにも、「わたしたちも人をゆるします」と祈り続けるとき、そのゆるせる愛が、主なる神から与えられるのです。
主なる神が愛の源であることは、「新しい掟」においてもそうではないでしょうか。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(34)「新しい掟」は、「新しい戒め」とも訳すことができます。聞き従うべき、大切な御言葉であって、弟子たちは心に刻んで生きていったことでしょう。おそらく弟子たちも、ヨハネの教会の者たちも、主の「新しい掟」に従って生きようとしたときに、自分たちの愛の足らなさを実感したはずです。しかし、「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、掟に生きるときの愛の源は、主イエスにあるのです。
さらに、「新しい」と言われたことの理由が、続く14章にあります。掟に生きるときの愛の源を主が私どもに与えてくださる約束が語られているのです。14章15-17節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別に弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」真理の霊である聖霊御自身が、主イエスを愛して、掟を守る私どもと一緒に生きてくださるのです。
考えてみますと、掟や戒めと聞きますと、守らないといけない、しばられるようなイメージを持つかもしれません。しかし主イエスの掟に生きることは、幸いなことです。主の愛を生きることですし、私どもが互いに生かされていくからです。
先週、教会の仲間をおたずねしました。施設や家庭をたずねて共に祈りました。Tさんは、特別養護老人ホームにおられますが、連れ合いとお部屋に行って声をかけますと、飛び起きるように喜んで迎えてくださいました。90代後半で、まったく変わらず元気なお声で、いつものようにいろんな話をしてくださいました。戦中戦後の話もあり、少女時代の友人を戦争で、目の前で失ったつらい思いを語ってくださった。お話をうかがいながら、私が聖書を手にしていることに気付くと、「先生、聖書読んで祈ってください」と言われて祈りました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)ベッドの上に、ちょこんと腰掛けて、頭が膝に着くほどに沈み込んで祈りの姿勢をとられていました。聖霊の導きのもとに、共に主の愛に生きる幸いなときを与えられて、とても励まされました。お部屋で挨拶して失礼するつもりが、どうしてもエレベーターまでと言われて、車いすにご自分でさっと乗り移られて、見送ってくださいました。
祈祷会でご様子を伝えてお祈りしますね、と言いますと、とても喜んでおられました。
互いに愛し合うことは、互いを覚えて祈ることがそうでしょう。しかし、その祈りの生活の源は礼拝にあり、主の愛が、私どもが互いに愛し合う歩みの源になっているのです。もっと言いますと、礼拝で「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と、主イエスを信じて祈るときに、そこから、私どもが互いに愛し合う歩みが生み出されていくように思います。
主イエスは約束されました。「互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35)「あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とは、教会の外に向かって、ここにキリストの弟子たちがいる、とキリストが伝わっていくことです。私どもは福音の言葉を託されていますし、教会しか、キリストの救いの福音を伝えることはできません。しかし同時に、私どもは言葉と共に「互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」との主の約束に生きる幸いが与えられているのです。
主の約束ですから、主が共に生きて、聖霊御自身の助けをもって、主の愛に生かしてくださることを信じていきましょう。私どもが、互いをおぼえて祈ることができるのも、人をゆるします、と祈ることができるのも、そして私どもが互いに愛し合うことができるのも、主なる神に源があることを信じて、日々に感謝と喜びをもって生きていきましょう。





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