2026年9月27日(日)
【聖霊降臨節 第19主日】
礼拝説教「主イエスの平和」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 14:25-31
<讃美歌>
(21)26,8,341,532,64,29
「さあ、立て。ここから出かけよう。」と今日の箇所は、主イエスの御言葉で終わります。「出かけよう」とは、十字架への歩みを進められることです。しかしこのあと、主イエスと弟子たちはすぐに出かけないで、15章から17章にわたる主イエスの説教が続きます。それはなぜかと神学者たちを悩ましてきました。みなさんは、どう思われるでしょうか。
神学者たちは、時間的な順序が入れ替わっていると考える者もいます。あるいは、書ききれなかった主イエスの御言葉を、ここに挿入したと考える者もいます。しかしある尊敬する神学者は、むしろ、ヨハネが書いた通りに理解することを勧めます。私どももある方をたずねて、別れ際に、そこからまたしばらく話が続くことがあるでしょう。最後にもっとも大切な話を聞いて、最初に話してほしかったと思うようなこともあるのでは。あるいは逆に私どもが、最後の最後に、一番聞いてほしかったことを、相手にやっと話したというような経験をすることもあるのです。
主イエスは、弟子たちとの地上での別れを前にして、まるで遺言説教のように話されたのではないか。それが15章から始まるというよりも、すでに主イエスの遺言説教は始まっている、そして、15章からも続くと捉えることができるのです。
主イエスは「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。」(25)と言われます。しかし弟子たちは、そのときにはよく理解していなかったようです。私どもも、礼拝生活の中で、何度も聞いて来たはずなのに、初めてよくわかったというような経験をすることがあります。それは、何も知らなかったのではなく、理解が深まったということですが、御言葉に伴う聖霊のお働きがあるからです。
主イエスは弟子たちに、聖霊のお働きを約束して語りかけられました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26)
この御言葉はとても重要です。ほかの御言葉がさほど重要ではないということではありませんが、とくに重要な、こころに刻むべき御言葉です。主イエスがいろいろなことを話されてきたようで、その御言葉の流れがここへと流れて集まってくるように感じます。主イエスは弟子たちに、聖霊が主イエスの御言葉と共に働いて教え、思い起こさせてくださると言われました。教えることも、思い起こさせることも同じようなことで、重ねて強調されています。
ヨハネによる福音書を記したヨハネはまさに、聖霊のお働きによって教えられ、思い起こして記しました。そしてこの福音書を受けとった教会も、この福音書の御言葉と共に聖霊が働かれることを知っていったのです。最初に福音書を受けとったのは、80年から110年頃と言われますから、そのころは、すでにペテロは殉教の死をささげていましたし、ほかの12弟子を含めて、主イエスの十字架と復活の目撃者は地上の生涯を終えて、天に帰っていたことでしょう。福音書の御言葉と、御言葉に伴う聖霊のお働きによって教会生活を生きていたのは、私どもと同じで、主イエスが命をささげて語ってくださった約束が、現代においてもずっと続いている、そしてこの恵みはつきることがないのです。
つきることがない恵みを、主イエスはこう語られました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27)「わたしの平和を与える」と言われた主イエスは、もちろん日本語で話されたのではありません。新約聖書は同時のローマのギリシャ語で書かれていますが、元々主イエスは弟子たちにギリシャ語で話されたのではない、旧約聖書の言葉で、わたしのシャロームを与える、と言われた。シャロームは、シャーラムという動詞が満たすとか、補うという意味ですから、平和とか平安と訳されますが、むしろシャロームは、満たし、助けという意味になります。
私どものあらゆる欠けを満たそうと主が働きかけてくださる、それがシャロームです。しかし、よく考えてみると、欠けを満たしていただくだけでは、私どもは十分ではないはずです。もう少し足りない、もう少し補って、助けてもらえばそれで済むようなことでは、主イエスがいのちをささげられる必要はなかったのです。私どもがシャローム、神の助けを必要としている、それは、究極の助け、救いを必要としているのです。罪をゆるされて神に受け入れられる救いこそ、シャローム、神の救いが満たされることです。ですから、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と言われたときに、命をささげることを覚悟なさっていた、しかも、心からそれを受け入れて語りかけられたはずです。そこに、神の愛が現わされ、恵みが与えられたのです。
「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と言われました。世が与えるようではないとは、人の助けのようではない、何かを補えばそれで済むようなことではない、ということでしょう。主イエスが私どものシャローム、それは救い、満たし、助けとなってくださるのだから、「心を騒がせるな。おびえるな。」と言われます。
騒がせる、というのは水をかきまわす、という意味合いがあります。普段はコップの底に沈んだようなものが、何か大きなことが起こると、コップ全体がかき回されると浮かび上がるように、心を乱されることがあるのではないでしょうか。自分の弱さやふがいなさにがっかりされたことがあるかもしれません。主イエスは、弟子たちのすべてをご存じでした。彼らのことを知り抜いて、心を騒がせ、おびえることを知っておられたからこそ、その欠けを満たし、そこから救い出すために、「心を騒がせるな。おびえるな。」と言われました。それは、単なる、そうしてはならないという注意ではなく、救い出すことを約束してくださっているのです。
主は私どもにも、「心を騒がせるな。おびえるな。」と約束の御言葉を語りかけてくださるのです。おびえて、心を騒がせ、自分はどうにかなってしまうのではと考えることがありますが、そこから救い出すことができる主イエスが、「心を騒がせるな。おびえるな。」と御言葉を、恵みの内に与えてくださっています。
主イエスもまた、祈りの内にご自身を騒がせ、おびえさせるものに勝利されて語っておられるのではないか。御自身のもとに信じて身を寄せる者に、同じ勝利を味合わせてくださるのです。30節でこう語られます。「もはや、あなたがたに多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」世の支配者は、悪しき者、悪魔と呼ばれる者ですが、「だが、彼はわたしをどうすることもできない」と言われます。すでに勝利をされている、それは、たとえ悪魔が主イエスの肉体の命を奪っても、滅ぼすことができない、どうすることもできないのです。主イエスの十字架の死は終わりではなく、そこに神の愛が現わされ、死への勝利があり、復活なさった、そのことをここで主イエスは祈りの内に確信されているのです。
私どもは、自分をどうにかしてしまいそうなものに、揺さぶられることがあるのではないでしょうか。大きな苦難がそうです、それは、自分の将来を見据えられないような出来事が立ちふさがることがあります。苦難や病気が立ちふさがるように、私どもの歩みをかき回すことがあります。どうにかなってしまうのではと思う私どものことを、主はすべてご存じであります。しかし、私どもはまた、そこでこそ知るべきことがあります。主イエスは、悪しき者が「わたしをどうすることもできない」と言われました。私どもからすれば、どうにかなってしまうことにおいてです。ですから、いかなるときにも、私どもは主イエスのもとに逃れることができるのです。確かなお方のもとに、まるで親鳥の翼の影に子どもたちが守ってもらうように、主のもとに行くことができるのです。
むしろ、私どもを本当にどうにかすることができるのは、主なる神御自身であります。人を裁き、滅ぼすこともできる方が、わたしのシャロームを与えると言われる、その恵みを畏れ敬う心で、受け取っていきましょう。





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