2026年9月20日(日)
【聖霊降臨節 第18主日】
礼拝説教「神の言葉を守る喜び」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 14:15-24
<讃美歌>
(21)26,4,352,476,64,29
主イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(15)と言われました。この御言葉を聞いてどう思われるでしょうか。礼拝後に黙想会をしますが、心に引っかかるような言葉をむしろ、黙想するようにお話しします。黙想会で、ここが引っかかったと話される方もありますが、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」という御言葉は、心にざらつくようなことは何もないでしょうか。
ある方は、「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とある、「ならば」を受けとめて、掟を守ることが、主を愛していることのしるしのように捉えられると、自分は果たして、掟を守っているだろうかと考えられるのではないでしょうか。
掟は13章34節を受けています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」互いを愛することを、十分に果たしていると、胸を張って言える方もあるかもしれませんが、私どもは、互いを愛して受け入れていくことに、いつも足りなさを感じることがあるのではないでしょうか。むしろ、愛の足らないところを、主が満たしてくださることを祈り願って来たのではないか。その意味では、「わたしがあなたがたを愛したように」と語られた御言葉によって、主の愛に私どもの互いに愛する歩みの源があることを信じていくことができるのです。
ここまで思い巡らしますと、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」という御言葉は、掟を守ることが、主イエスを愛していることのしるしとして捉えること自体、それでいいのかという疑問が浮かびます。つまり、私どもが掟を守ることを出発点にしないでいいのではないかということです。とても込み入ったことを話しているようですが、御言葉をどのように捉えるかということでは、とても大切なことをご一緒に思いめぐらしています。むしろ、私どもが御言葉の恵みからズレないよう、御言葉の恵みにしっかり立つように願っています。
「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とは、直訳してもあまり変わらないかもしれませんが「わたしを愛するならば、わたしの掟を守る」となります。「わたしの愛するならば」とあるように、主イエスを愛することをまず、素直に出発点とするときに、話は大きく違ってくるように思います。先ほど、御言葉の恵みにしっかり立つように願うと言いました。
それは、主イエスを愛することを恵みとして捉えたら、話は大きく違うのではないか、ということです。ピンとこない方もあるかもしれませんが、主イエスを愛して従っていくことは、何かつらい義務ではなく、私どもに与えられている喜ばしい恵みです。
主イエスの美しさ、主なる神の美しさを語った、ドイツのある有名な神学者を思い起こします。先週もお休みのときに、久しぶりに家族でドライブに出かけましたが、高速道路で八王子市に入ったのですが、山間部の美しい山間を見ながら、ここも八王子なんだね、八王子は広いね、と家族の言葉を聞きながら、雨が上がった、美しい山々を見て、いいね、と思わず声が出ました。景色に主イエスをたとえるのはどうか、と思われるかもしれません。道を歩いていて、小さな乳幼児を抱っこされているお母さんやお父さんとすれ違う時に、その小さな子と目と目が合って、思わず声をかけたくなるときがあります。私事ですが、もう天に帰った父は、そのようなとき、目が合わなくても必ず声をかけていました。幼子には引き込まれるような存在感があるように思います。このようにお話ししながら、幼子の魅力や美しい景色にたとえても十分ではなく、たとえきれないことを感じます。いずれにしても、うつくしい景色を美しいと思うことも、幼子を見て引き込まるのも、そうしなくてはいけない、と義務でする人はいないのではないか。
主イエスを愛することも、主イエスに出会って主とつながっていくことですから、声をかかていただいた私どもが、その語りかけを受けとめていくことから始まります。そこには、義務やしなければならないことから自由にされて、このお方について行きたい、と好意をいだいている思いがまず与えられているのです。
ある神学者、その先生はもう天に帰られましたが、求道されている方が、信仰を抱いていくときに、主イエスを好きになっていく、このお方について行きたい思いが与えられるという意味のことを語っています。それは、戒めや掟をまず守ることから始まるのではなく、主イエスに自分をあずけようとする思い、従おうとする思いから始まるのです。
ですから、直訳で「わたしを愛するならば、わたしの掟を守る」というのは、主イエスを愛することが、神から来る恵みであるように、その恵みの中で、主イエスの掟を守って生きることが起こるという、約束の御言葉として捉えることができるのです。
もちろん、私どもが、主の掟に生きて、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という御言葉に生きようと思いを深めて、祈りつとめることは必要なことです。決意も努力も必要ないとは言えないでしょう。
しかし、掟を与えてくださった主イエスが、その御言葉に生きることができるように、備えを用意してくださっていることに気付く必要があります。それが、続く16節です。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(16-17)この聖句を十分に味わうことが、この箇所全体だけではなく、ヨハネによる福音書全体の恵みにしっかりと立つことになるのです。「この方は、真理の霊である」と主イエスが言われたのは、聖霊のことです。しかも、単なる霊ではなく、「弁護者」と訳しているように、聖霊なる、主なる神御自身のことです。この聖句は、ゴールデンテキストと呼ばれることもあるようで、聖霊を語った、あるいは、三位一体の神を語った、大切な御言葉です。主イエスは、御自身のことを「わたしは道であり、真理であり、命である」(6)と言われましたから、「真理の霊」は真理である主イエスの霊、と言うことができます。そして、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(10)と言われたように、父なる神と主イエスはひとつです。その主イエスの真理の霊ということは、聖霊は、神の御性格をもった三位一体の神の霊です。しかも、「別の弁護者」でもあるのです。
「別の」ということは、弁護者である「主イエス」と別のということではないでしょうか。私どもを弁護してくださる、それは、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とあるように、主イエスが霊として、私どもと共にいて、弁護してくださるのです。具体的には、ローマ書8章33節以下にあるとおりです。「人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」主イエスの執り成しを、私どもの傍らにいて実現させてくださるのは聖霊のお働きです。
聖霊は、「弁護者」とありますが、パラクレートスということばです。パラは傍らに、クレートスは、呼ばれた、という意味合いがあります。弁護することは、助けるという意味で、助け主と訳すこともできます。聖霊は、私どもの傍らにいて、しかも、いつまでも見捨てることなく共にいて助けてくださるのです。
私どもの願う助けは、とても自己中心的なことがあって、そのことに気付いて、悔い改めた方もあるでしょう。しかし、そのような自己中心な願いから始まったとしても、主は、主を愛する恵みへと導いてくださるのです。そのとき、主の愛、命とつながる恵みに生かしてくださいます。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(19)と語りかけてくださいます。
「わたしは父にお願いしよう」と言って、私どもに先立って祈ってくださる主イエスがおられるのですから、主を愛する恵みに生きていきましょう。主の恵みによる、御言葉に生きる喜びがあることを信じていきましょう。





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