2026年9月13日(日)
【聖霊降臨節 第17主日】
礼拝説教「心をさわがせない道」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 14:1-14
<讃美歌>
(21)26,12,208,443,64,29
この朝は、敬老祝福の礼拝をささげています。このあと、80歳以上の仲間を祝福します。なぜ80歳以上かは、白鷺教会ではそう決めて来たからです。私どもは80歳で区切っていますが、80歳まで年を重ねて来られたことは、それぞれに思い返す、さまざまな主にある出来事があるのでは。感謝なこと、それも何度感謝しても足りないようなことがあるのでは、また、思い返すと神様に申し訳いない思いがすることが少なからずあるように思います。年齢は数字で表すしかないのですが、90歳だから長生き、たとえば70歳はまだまだとは言えない、主なる神から与えられた、かけがえのない日々、それぞれに与えられた年月があるのではないでしょうか。
その意味では、敬老祝福は、ある年齢で区切りますが、この世に命を与えられた尊さ、主にある感謝からすれば、敬老ではなく、「敬年」祝福という言葉はありませんが、それぞれが、共々に主にあって生かされていることを感謝して、主なる神から祝福を受けるときでもあります。お気づきの方もあると思いますが、礼拝の度毎に、主なる神から祝福を受けて、ここから遣わされて、出て行きます。その礼拝の度毎の祝福は、敬年祝福ではないかと思います。
ご一緒に、与えられています御言葉に耳を傾けたいと願います。主イエスは、まわりにいた弟子たちに、「心を騒がせるな」(1)と語りかけられました。この御言葉を弟子たちが聞いたのは、初めてではなかったと思います。何度も、聞いて来た御言葉でしょう。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」主イエスが何度も、弟子たちに語ってこられたとしても、まさにこのときの御言葉として語って来られたのではないか。それは、このときは最後の晩餐のときで、主イエスが命をささげられるときが迫っていたからです。弟子たちも、信じがたい事でしたでしょうが、もしそうであるならと思うと、心を騒がせたことでしょう。
私どもも、普通の心境ではおれないことがあったのではないでしょうか。あるいは、今現在、心が落ち着かないことに直面しておられる方があるかもしれません。「心を騒がせるな」と言われた主イエスは、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われました。少し立ちどまって思い巡らせたいと思いますが、「そして、わたしをも」とある、「も」は、聖書の原文にはありません。聖書協会共同訳では「神を信じ、また私を信じなさい」と訳しています。元々の聖書の言葉で「そして」とか「また」と訳されている言葉は「カイ」という言葉です。並列に「そして」と訳すことが一般ですが、「また」と訳すと、これは、勝手な憶測ですが、単なる並列ではない意味合いを持たそうとしたのではないかと思います。
なぜこだわるかと言いますと、この箇所で主イエスは、父なる神と主イエスは全く一つであることを語りかけておられます。フィリポに「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(9)と言われました。そして、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(10)と語りかけられました。父なる神と主イエスは全く一つであるということです。「そして」とか「「また」と訳される「カイ」は、別の訳し方では、「すなわち」と訳すことができます。日本語訳として「すなわち」とここで訳すことは行き過ぎでしょうが、前後関係からして、主イエスは「神を信じなさい。すなわち、わたしを信じなさい。」という思いを込めて語りかけておられるのではないでしょうか。
いずれにしても、私どもが主イエスを信じることは、父なる神を信じることであります。信じるという出来事に、私どもの力を超えた、聖霊御自身の働きがあるので、主イエスを信じることに、三位一体の主なる神を経験しているのです。
年齢を重ねた方が、これまでできていたことができなくなったことを話されることがあります。私もその方の年齢になったら、そのつらさがほんとうに分かるように思います。しかし、また気づくことがよくあるのですが、年齢を重ねて来られた方が、それまでよりももっと、主イエスを信じ、神を信じる思いを深くしておられることです。そして、ご本人がそのことに気付いておられないこともあるように思います。以前にもまして礼拝を中心にした生活を生きていて、努力しているというよりも、心から願ってそうしている、そして、礼拝で共に御言葉に生かされることを、何より生きる命の源としているのです。そこに、神のお働き、神の恵みがあるのではないでしょうか。
さて主イエスは、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(4)と言われました。この福音書を受けとった初代教会の者たちは、はい、主よ、私どもはあなたの道を知っています、と答えたでしょう。それは、主イエスが十字架に命をささげ死なれた道であり、十字架の死は終わりではなく、死に勝利されて復活され、やがて天に帰られて今もなお、生きて働いておられる、主の救いの道であります。
しかし、実際に主イエスから聞いた弟子たちは、まだよくわかっていなかった。そうするとなぜ、主イエスは「その道をあなたがたは知っている」と言われたのか、それは、約束の御言葉として、必ず成就することとして、時を超えて主イエスは語られたのです。まだ主の道がよくわからない弟子たちに、主イエスは愛を持って語りかけられました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6)とても有名な御言葉であり、多くの方に愛されてきました。この聖句から名前をいただいた方もあるでしょう。先ほど、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と主イエスが言われて、弟子たちはそのときよくわかっていなかったと言いました。それに対して、主イエスは、「わたしは道である」と言われて、主イエスが救いの道そのものであって、主イエスによらなければ、父なる神のもとへ行けない、救いを受けることができないと言われたのです。その救いを受けるための真理の御言葉を主イエスは語りかけて、御言葉の真理によって、私どもに上よりの、神の命、救いの命を与え続けてくださるのです。
主イエスは「心を騒がせるな」と言われました。主は私どもが、よく心を騒がせることをご存じであるのです。「騒がせる」という言葉は、原語で「タラッソー」ということばで、水が掻き立てられることを意味します。私どもが普段気付かない、心に深みに沈んでいたものが、思いがけない出来事によって、掻き立てられて浮かび上がっていくことがあります。それを自分でどうにかできないこともあります。しかし、主は「心を騒がせるな」と言われて、私どもを導いてくださるのです。それは、主の道に従って生きようとするものを祝福して、導いてくださるのです。
主イエスは御自身に従ってくるものを祝福して言われました。12節「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」主イエスが父のもとへ行って、そのあと、聖霊が教会に与えられました。御言葉に伴う、聖霊のお働きによって教会は生きてきました。目に見えるところでは、小さな歩みかもしれません。しかし、私どもは気づいていないのではないでしょうか。主イエスが地上におられたときよりも、もっと大きな主の働きに私どもが生きていることを。
日本の教会は年を重ねて、高齢化や人数の減少、伝道の困難など、これまでにない、困難なときを迎えているかもしれません。しかし、できないことが増えるなか、それにも増して、主のお働きが大きくなっていることを知っていく必要があります。「もっと大きな業を行うようになる」と言われた約束の御言葉に気付かせてください、教えてください、と祈っていきましょう。





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