2026年8月9日(日)
- shirasagichurch
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【聖霊降臨節 第12主日】
礼拝説教 「神の栄光を見るために」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 12:36b-43
<讃美歌>
(21)26,17,51,519,64,29
与えられています箇所には、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」(36)とあります。とても大切な言葉です。「身を隠された」とは、群衆を離れて弟子たちと過ごされたということですが、弟子たちと祈りをささげて思いを深めていかれたでしょう。どこへと向かって思いを深められたかは、十字架のへの道に向かっていかれたのです。このあと主イエスは、弟子たちに対して話されますが、群衆に向かって語りかけられることはなさらなくなった。身を隠されたのです。
そのとき、弟子たちはどのようなことを思ったでしょうか。私どもがそこにいても、なぜ身を隠されて、自分たちとの時間を過ごされるのか、主イエスの真意が分からなかったでしょう。弟子たちも、あとで分かって、ここにヨハネが記しています。それはかつて、預言者イザヤが経験したことと重なるということです。どういうことでしょうか。
主イエスが身を隠された背景には、人々が信じなかったことがあります。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」(37)とある通りです。こんなことを考えました。主イエスが直接語りかけて伝道されたのに、その成果は、目に見えるところではほとんどなかったということではないでしょうか。主イエスが、多くのしるしを行われたにもかかわらずです。
このことは、のちの初代教会、ヨハネの教会にとっても、自分たちと重なる思いがあったのではないか。ヨハネによる福音書が書かれて回覧された頃は、迫害の厳しい時代でありました。伝えても成果が上がらないどころか、仲間をどんどん迫害で奪われ、殉教の死をささげる者も多かった。このままでは、教会の将来はどうなるのだろうかと思ったはずです。しかも、ローマ帝国では、キリスト者は当時、ごく少数者でしたので、そのうち消えてなくなると思われていたようです。そのようなとき、主イエスが真実な福音を伝えても、人々が信じなかったことは、大きな励ましとなっていったはずです。彼らは、主イエスを信じて、細いけれども強く、信仰を継承していきました。それは、主イエスがわずかな弟子たちと、ほとんどの時間を過ごされたことと似ているのです。
伝えても人々が信じないこと、人数が増えるどころか減っていくことは、日本の教会がいま直面していることでしょう。そして、預言者イザヤが経験したことでした。しかもイザヤが経験したことが、主イエスを指し示しているというのです。イザヤ書の言葉が引用されています。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕はだれに示されましたか。」(38)とは、イザヤ書の53章1節にあります。だれも「わたしたちの知らせ」、すなわち福音の言葉を信じなかったのです。もう一つの引用は、6章10節にあります。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることがなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
この言葉は、読み方によっては、神様の側に人々が信じなかった原因があるかのように思われるかもしれません。しかし、イザヤが神の言葉を真実に伝えたときの、人々の反応、結果をあらかじめ主が語りかけられたのです。真実が語られたときに、かえって心をかたくなにすることがある、しるしを見ても信じないことを、主はイザヤに語られましたが、そのことは、主イエスにおいてこそ実現したのです。
41節に「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」とあります。イザヤが、主イエスについて語ったことは、先ほどから話している、イザヤが経験したことが、主イエスにおいてこそ成就したということです。では、主イエスの栄光を見たとは、どういうことでしょうか。
先ほど、38節の言葉は、イザヤ書53章1節の引用だと言いました。53章には、まるで主イエスの十字架の場面を、そばで見ているかのような言葉が記されています。私どもの罪のためにさばかれ、しかも黙してその身をゆだねている姿は、主イエスの姿そのものです。ですから、イザヤは、十字架のうえに現われた神の栄光を見たということです。
私どものために、命をささげても惜しくはないと愛してくださった神の愛は、十字架の上に現れ、そこに神の栄光が現れたのです。
主イエスが直接伝えられても、ほとんど成果が上がらなかった、と言いました。42節にあるように、信じる人々はいたのですが、そのことを公に言い表さなかった。会堂から追放されるのを恐れたからです。そのことは、社会の一員ではなくなることを意味しました。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」(43)とあります。「誉れ」という言葉は、栄光と言う言葉です。
主イエスが「父よ、御名の栄光を現わしてください」(28)と祈られた、「栄光」と同じ言葉です。「父よ、御名の栄光を現わしてください」という祈りを、「黄金の祈り」と英国の神学者が呼びました。それは、私どもも主イエスにならって祈るべき祈りということです。主イエスにならって、「父よ、御名の栄光を現わしてください」と祈って生きていくときに、人からの誉れから自由にされるのです。人からの誉れ、人からどう思われているか、そこから自由にされるのは大きな恵みではないでしょうか。
主イエスによって蒔かれた御言葉の種は、のちに目を出して実を結んでいきました。「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」とある、ひそかに信じていた議員のなかから、人からの誉れから自由にされた者たちが、のちに生まれました。主イエスが十字架にかかられたとき、そのお身体を墓に葬るために引き取った、アリマタヤ出身のヨセフと、それを手伝ったニコデモがそうです。
思いがけないところで、御言葉の種が芽を出し、実を結んでいくことを信じていきましょう。私どもではなく、主がこの礼拝で今もなお、御言葉の種を蒔いてくださっていることに、信じて従っていきましょう。



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