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2026年8月2日(日)平和聖日

【聖霊降臨節 第11主日


礼拝説教「光の子となる」 


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 12:27-36


<讃美歌>

(21)26,16,371,509,79,64,29

 

 主イエスは、「今、わたしは心騒ぐ。」と言われました。どのように心を動かされたのでしょうか、ご一緒に思い巡らしてみましょう。すでにエルサレムに入られて、十字架への道を覚悟なさっておられるときのことです。神の独り子であり、主なる神である主イエス・キリストであっても、心騒ぐことがあるのか、と思われるかもしれません。あるいは、救い主であるので、私どもと同じようなところで心がゆり動いているのではない、と言えるかもしれません。確かに、主イエスは「一粒(ひとつぶ)の麦」(24)として、十字架に命をささげる道を歩み出しておられますから、私どもは、その主イエスの思いを知る尽くすことはできないでしょう。

 ヨハネは、知り尽くすことができない主イエスの思いに、聖霊のお働きによって触れて記したはずです。主イエスは祈られました。「『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください。」(27)

「父よ、わたしをこの時から救ってください」とは、私どもの祈りでもあって、そこにとどまっていることもあるのではないでしょうか。助け出してほしい困難を経験していることを通して、主が何かを学ばせようとなさっていることは考えないで、ただただ助けてほしいと祈ることがあるからです。しかし主イエスは、父なる神のみこころにゆだねて従い、「父よ、御名の栄光を現わしてください」と祈られました。

ある有名な英国の牧師は、「父よ、御名の栄光を現わしてください」という主イエスの祈りを、黄金の祈りと呼びました。口先で祈ることはできない、すべてをゆだね、命をささげた祈りです。神の「御名」は、主なる神の聖なる愛のご性質のことですし、「御名」は、そのご性質によるお働きをも意味します。ですから、「父よ、御名の栄光を現してください」と願ったことは、主なる神の聖なる愛のご性質とその働きが現れていく、それは十字架の死と復活の救いが実現することです。さらには、復活のあと、主が天に帰られていく、昇天のことをも示しているのです。

 主イエスの祈りは聞き届けられて、天からの声が聞こえました。しかし人々には、その御言葉を聞き取ることはできなかったのです。「雷が鳴った」という者や、天使がこの人に話しかけたのだ」という者がいたりして(29)、父なる神が語りかけたことも、その御言葉の内容も分からなかったのです。しかし、主イエスは、「栄光を現わそう」(28)と語りかけられた御言葉を、解き明かされました。

 「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(31・32)「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」とは、とても深い御言葉だと思います。十字架において、主イエスは父なる神の裁きを受けられました。それは私どもに代わって受けてくださったので、主イエスの犠牲によって赦されていく、救いの道が開かれたのです。しかしそれと共に、神の裁きがあり、終末の救いに向けて、悪や罪が滅ぼされていく時が、今始まっていることを語られたのです。

「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」と聞くと、悪しき支配者たちをすぐにでも追放してください、という願いを持った方もいるのではないでしょうか。今日は、平和聖日の礼拝をささげています。

 礼拝の招きの言葉、招詞でイザヤ書2章4-5節が朗読されました。その御言葉がこの個所の主イエスの御言葉「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」と結びつく思いがしました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし 槍(やり)を打ち直して鎌(かま)とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」

これは想像ですが、このイザヤ書の御言葉を、主イエスが心に響かせながら語っておられたのではないか。あるいは、神の裁きと世の支配者が追放されるその先に、何があるかを、イザヤ書の御言葉が示しているのではないでしょうか。神の裁きは、その先に回復をもたらし救いを与えて、神の平和、光の中を歩ませるために戒め、裁かれるのです。

 そのことは、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」と言われた御言葉と結びつきます。「すべての人を」と訳されていますが、原語では「すべて」と訳すことができます。ある神学者は、すべてを主イエスがご自分のもとへ引き寄せることを約束されていることは、宇宙的な広がりがあると言いました。創造の始めに帰って、再創造されるような、主なる神による回復の道が始まっているのです。

 人々は、主イエスの御言葉が分かりませんでした。主イエスがメシアとして語っておられることを受けとめている、あるいは主イエスをメシアとして信じようとしていると思われますが、彼らのメシアについての理解と食い違っていたのです。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。」(34)とは、確かに、根拠となるいくつかの聖書箇所があります。

 たとえばダニエル書7章14節には、「人の子」のような者が来られることが記されて「彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることがない。」とあります。この御言葉が、終末の救いのことまで含んで、メシアのことを語っているでしょうが、人々は、主イエスが十字架に裁かれることも、復活され、そして天に帰られことも、全く理解できなかったでしょう。しかし、人の心がまったく思い浮かべることもできない、神の御名による神の栄光の働きが、すでに始まっているのです。

 そのことは、メシアの預言の御言葉にも示されています。詩編110編4節にこうあります。「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って あなたはとこしえの祭司 メルキゼデク(わたしの正しい王)』」メルキゼデクは、義の王という意味です。この御言葉をヘブライ人への手紙が引用して、さらに主イエスについて記した御言葉が、「今、わたしは心騒ぐ」と言われた主イエスの思いとつながってきました。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(5:7-8)その主イエスのことを「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭(あ)われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜(じぎ)にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:15-16)

 主イエスは、私どもの思いを知ってくださる救い主だということです。心から願って構わない、主は待っていてくださるのです。もちろん、私どもの思いや願いの中に、主イエスを閉じ込めることはできません。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」(26)と言われた、主イエスのみこころに従うことは「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(36)と言われた、光の子となる道に生きることです。

平和聖日に、私どもの救い主、光となってくださった主イエスに思いを巡らせました。主イエスは私どもを照らす光であって、いつまでも消えないお方です。光である主イエスが今もなお、世を照らしておられることを信じていきましょう。私どもが主イエスに照らされて恵みを受けていることは、どこまでも世に広がっていく、神の確かな、しるしとなっていることを信じて、主に従っていきましょう。


 
 
 

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