2026年7月19日(日)
- shirasagichurch
- 7月19日
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【聖霊降臨節 第9主日】
礼拝説教「ろばの子に乗る王」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 12:12-19
<讃美歌>
(21)26,20,208,307,65-2,29
先週、月曜日から二泊三日で能登半島地震被災教会を訪問しました。教団の教師委員会の活動として、やっと実現しました。被災教会や付属の幼稚園をおたずねして、お話しを伺い祈りを共にささげました。2024年の1月1日の地震が起こってから約2年半経っていますが、まだまだ復興途上でした。しかし、忘れないで訪ねてくださったと、とても喜んで迎えてくださいました。
主イエスがエルサレムに来られたとき、人々は13節にあるように「ホサナ」と叫んで、主イエスを迎えました。四つの福音書がすべて記していますが、マルコによる福音書では、道に自分たちの着ている服を敷いて迎えたことが記されています。それは身につけていた大切な上着を道に敷いたのです。
人々は、なつめやしの枝を持って迎えました(13)。そのようにするのは、王を迎える迎え方であると言われます。当時人々が、主イエスに何を期待していたかということでは、ひとつには、自分たちを支配しているローマ帝国から解放してくれる、力強い王を求めていたと言われます。
彼らは、「ホサナ」と叫びました。それは、「わたしたちに救いを」という意味です。
同じ言葉が、詩編118編25節に記されています。
「どうか主よ、わたしたちに救いを。」(25)と願っているのですが、それに対して応えるように、「祝福あれ、主の御名によって来る人に。」(26)と語りかけています。
「わたしたちに救いを」は、ヘブライ語で「ホシアー ナー」で、「ホサナ」のことです。この詩編は、元々、「どうか主よ、わたしたちに救いを。」と歌ってエルサレムを巡礼する人々を、祭司が「祝福あれ、主の御名によって来る人に」と、迎えて歌った歌です。
しかし主イエスが来られたとき、祭司は迎えてはいないのです。人々が迎えました。あるいは、主イエスと一緒にここまでやってきた人々が、エルサレムに入られたのを喜んで、王を迎えるように道に上着を敷いた。そして、「ホサナ」「わたしたちに救いを」「わたしたちをお救いください」と叫んだのです。
しかし、当時人々が、どういう救いを望んでいたかが、問題であるのです。多くの人々は、これから主イエスが成し遂げようとされる、罪の赦しによる救いとは違う、政治的に国が独立するという意味での救いを期待していたと言われます。弟子たちもまた同じような、軍隊を率いて自分達を解放してくれる王のような救い主を思い抱いていたと思われます。しかし弟子たちは、そのようなずれた思いをやがて正されて、主イエスが誰であるかはっきりと分かるときが与えられました。
ヨハネによる福音書がこのように記されたのは、主イエスの十字架と復活の後です。ですから、ここに告白されている、「ホサナ」「わたしたちに救いを」という叫びは、依然としてずれた叫びではなく、自分たちの信仰の告白を重ね合わせて記しています。どういうことかと言いますと、ヨハネもそうですが、福音書を受けとった当時の教会が、今再び、主イエスを自分たちのまことの王として、教会に迎え直しているのです。
ここで、ある神学者のこの箇所についての説教を思い起こします。そこには、主イエスが私どもの王として来てくださったということを、どれほどに受け入れて、歩んでいるかということです。私どもは、自分の人生は、いつも最終的な主権は、自分が握っていると思っているのではないか。ゆだねますと言いながら、ゆだねるということを、もともと私どもは知らないのではないか。神の主権に、自らをゆだねて従うことを、自然に元々できない私どもであるならば、主イエスに従うこともまた、教えられなければできないのです。
そのように私どもが主イエスを王として受け入れ、そこに自分の存在をすべてゆだねて平安のうちに生きるためには、いったい主イエスがどのような王であるかを、知る必要があるのです。
主イエスが、ここでろばに乗って入城されたことは、ゼカリヤ書9章9節に記されていることだと言われます。
「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って。」
すでにお気づきの方もいると思いますが、通常、王が入城するときは、ろばには乗りません。馬にまたがるのが常です。馬というのは、戦いに出ていく軍馬です。ゼカリヤ書に預言されているのは、軍馬ではなく、ろばに乗る平和の王が記されています。ろばに乗って主イエスは、エルサレムに入られますが、馬が戦いを思い起こすのに対して、主イエスが乗られたろばは、ここに神の平和を象徴しているのです。
主イエスは、世俗の王のように、戦いによって平和をもたらそうとする王ではない。あるいはまた、力に対して、より大きな力を示して平和をもたらす王でもない。人々が、神との平和、罪の赦しによる、主イエスの和解の福音にあずかることによって、まことの平和をもたらす王であります。
主イエスは、世俗の王のように人を力で支配するために来られたのではない。主イエスは、神の恵みによって支配し、私どもに主に従う幸いを与えるために来られたのであります。主イエスが、恵みによって支配する王であることを知るときに、安心してゆだねることができる。むしろ、私どもの王として、教会の頭として、私どもを治めてください、と祈るのです。
先ほど、初代教会が主イエスを、改めてまことの王として迎え直していると言いました。ヨハネによる福音書が書かれて回覧されたのは、90年から110年ごろと言われます。そのとき、エルサレム神殿は土台だけになっていました。都が70年に陥落して、国が滅んでいたからです。都の廃墟に立たれる主イエスを見るようにして、彼らは主イエスを迎え直したのです。
ろばの子に乗る王が主イエス・キリストだと言いました。そのことを思い巡らすときに、今もなお、主イエス・キリストはろばに乗ってくださる、そして私どもはろばの子ではないか、そう思えてきました。ろばの子は、十分な力もなく、経験もなく、弱さを持ち合わせています。しかし、主は喜んで、教会というろばの子に乗ってくださるのです。世の人々からは、軍馬ではない、ろばの子に何ができるかと言われるかもしれません。しかし、私どもは、ろばの子に乗る王である主イエスを信じて従っていくのです。私どもを主は用いてくださって、神の平和を世にもたらされることを信じていきましょう。私どもに与えられている主の救い、主の平和が、ひとりまたひとりと広がっていくことは、主の御心であることを信じていきましょう。




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