2026年7月26日(日)
- shirasagichurch
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【聖霊降臨節 第10主日】
礼拝説教「ひとつぶの麦から」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 12:20-26
<讃美歌>
(21)26,8,205,407,65-2,29
ご一緒に黙想するように御言葉に聞いていきましょう。与えられています箇所は「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」(20)とあります。ユダヤ人の過越祭のときに、「何人かのギリシア人がいた」とある彼らは、「礼拝するために」来ていたのです。
当時としてはめずらしい事だったかもしれません。ユダヤ人とギリシア人は仲違いすることがよくあったと聞くからです。しかしそれ以上に、直前の言葉を受けています。19節
でファリサイ派の人々が「世をあげてあの男について行ったではないか」とある、「世をあげて」ということが、ギリシア人の姿にも表れているのです。
なぜ立ちどまって、ていねいにお話しするかと言いますと、それは、主イエスの大切な御言葉の序章のように記されているからです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24)主イエスの御言葉に、「世をあげて」人々が主イエスについていく、大きな広がりが示されている、そのしるし、序章のように、ギリシア人が「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(21)とフィリポに頼みました。
なぜフィリポかと思われるかもしれません。こういったことを黙想することも、御言葉の豊かさに触れることになります。もちろん、フィリポが親切そうで、頼みやすかったかもしれません。ただ、フィリポという名前は、ギリシア的な名前だと言われます。誰かからフィリポという弟子がいることを聞いたのかもしれません。頼まれたフィリポは、実に慎重に、アンデレに話して、それで二人で主イエスのもとに行って、彼らの願いを伝えました。主イエスは答えられました。
「イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(23・24)「イエスにお目にかかりたいのです」という願いの答えになっているでしょうか。もちろん、ギリシア人たちに主イエスが会って、直接話されたかもしれません。あるいは、フィリポとアンデレが、主イエスの御言葉を伝えたと思われます。いずれにしても「イエスにお目にかかりたいのです」という願いの中にある、ひとつぶの信仰と言うべき、主イエスにお目にかかってついて行きたい、という思いを主イエスが深く受けとめてくださっているではないでしょうか。会うだけで終わらないようにしてくださったのです。「人の子が栄光を受ける時が来た」とは、十字架のうえに表される栄光です。十字架の犠牲へといよいよ歩み出しておられるのです。そして、その十字架の犠牲を、ひとつぶの麦にたとえられました。「はっきり言っておく」とは原語では「アーメン、アーメン」という言葉で、「まことに、まことに」言っておくという意味です。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という御言葉は、ヨハネによる福音書の中でとくに有名な聖句ですが、教会のなかに留まらず、耳にされた方もあるでしょう。主イエスが御自身をひとつぶの麦にたとえて、十字架に命をささげることが「多くの実を結ぶ」、と世をあげて広がっていく救い、キリスト教会の姿を約束されたのです。
聖書を黙想するときに、心に引っかかるような、手にざらつくような御言葉を分かち合うようにすることがあります。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(25)とありますが、「自分の命を憎む」というのは、どういうことか、と心に引っかかっている方もあるのでは。
黙想するときに、聖書の御言葉から離れないで黙想することが大切です。自分のこれまで知ってきた憎しみとつなげるようにして黙想すると、ずれていくからです。御言葉から離れないで黙想しますと、ひとつには、「自分の命を愛する者」と「この世で自分の命を憎む人」が対比されていることがわかります。「自分の命を愛する」ことの反対として「自分の命を憎む」と言われています。聖書のギリシア語の辞書で調べましたが、自分の命を愛することは、ほかのものを選ばないで、自分の命を選んでいくことです。それのどこがいけないのかと思われるかもしれません。主なる神から与えられた命を、何よりも大切していくことをここで否定しているわけではありません。
自分の命を愛することが、ほかのものを選ばないで、自分の命を選んでいくことだとすれば、自分の命を憎むことは、もっと大切な選び取るものがあるので、自分の命を選ばないということです。主イエスは「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」(26)と語りかけられました。それは、あなたのために、命をささげて救いの道を開いたわたしに従いなさい、ということです。それが、かえって命を保って永遠に至るのだから、安心してわたしに従ってくるようにと招いておられるのです。
考えてみますと、主イエスこそが、御自身の命を保つように自分の命を愛されたのではなく、命をささげる道を選んでいかれました。そして、そのような、ひとつぶの麦となれた主イエス・キリストの救いの命が、私どもの中にも結ばれているのです。
主イエス・キリストは語りかけられました。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(26)
私は、「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」という御言葉が心にとまりました。なぜかと言いますと、「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」というのは、主イエスに仕えて従っていくときに、主イエスのおられるところに、私どもも共にいることが約束されているからです。わかりにくいかもしれませんが、私どもはともすれば、自分のいるところに、主イエスがいつも共にいてくださることを願っているのではないでしょうか。それは、主イエスに仕えて従っているかどうか問うことを忘れて、自分と共にいてくださることを願うことがあるということです。
しかし、主イエスはすべてをご存知であり、私どもを赦して、ふさわしい道へとたえず導いてくださる、神の愛である救い主です。ときに利己的になる私どもを、御自身のおられるところ、神の道に生かそうとして、「わたしに従え」と語りかけてくださるのです。
よくよく考えてみますと、主イエスがおられるところとは、神のおられる、聖なるところではないでしょうか。そのために、主イエスが尊い、ひとつぶの麦となられたことを思い起こしていきましょう。白鷺教会の年度目標は「一日一日を感謝して生きる」です。主イエスがひとつぶの麦となられたことを思い起こして日々に感謝していくとき、恵みによって、主なる神がおられるところに、私どももいるのです。




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