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2026年7月12日(日)

【聖霊降臨節 第8主日


礼拝説教「香りでいっぱいに」


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 12:1-11


<讃美歌>

(21)26,1,204,567,65-2,29

 

 マリアが香油を、主イエスに注いだことが記されています。とても愛されてきた箇所です。「家は香りでいっぱいになった」(3)とありますが、マリアが高価なナルドの香油を注いだからです。これまで代々にわたって愛されてきた出来事ですが、この物語は何を表しているのでしょうか。主イエスが彼女のしたことを喜んで受け入れられたのですが、香油が注がれたことは、何を示しているのでしょうか。

主イエスは、ある家におられて食事の席についておられました。それは、べタニアにある家でのことです。その家で、マルタが給仕していたのですが、マリアが、「純粋で非常に高価なナルドの香油を」(3)主イエスに注いだことが書かれています。「1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった。」(3)とあります。1リトラとは、326グラムだそうですから、それぐらいの分量でも、300デナリオン(5)の価値があったようです。

1デナリオンは、一日分の賃金に相当しますから、300デナリオンは300日分の賃金となり、およそ1年働いて得ることができるお金でやっと買えるほどの価値があったということです。なぜ、そんな高価なものを惜しむことなく、主イエスのために用いたのでしょうか。イスカリオテのユダは、後に主イエスを裏切ったのですが、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5)と批判しました。ヨハネはユダの心を見抜くように語っています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」貧しい人々のためではなく、自分のために香油の代金を手に入れたかったのでしょうか。いずれにしても、なぜ主イエスのために、高価な香油をマリアが用いているのか、その意味が分からなかったのです。主イエスは、彼女が高価な香油を御自分の足の塗ったことを喜んで受け入れられたのですが、香油が注がれたことは、何を示しているのでしょうか。

マリアは、主イエスが救い主であることを信じて、このことをしたはずです。マルタが告白した「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11:27)とは、マリアの告白としても受けとめることができます。救い主のことを旧約聖書では「メシア」と言いますが、それは「油注がれた者」という意味があります。預言者や王が就任するときに、油が注がれて、主なる神によって、王や預言者として立てられていきました。そのメシアという言葉が、やがて、来るべき救い主を意味する言葉に用いられるようになりました。ですから、マリアが香油を注いだことは、主イエスがメシア、まことの王として就任されたことを意味するというのです。

すでに、救い主としても歩みを始めておられた主イエス・キリストですが、過越際を前にして、香油を注がれたことによって、その思いを固くされることになったのです。12節以下では、主イエスはエルサレムに迎えられますが、それは、まことの王であるメシアとして迎えられているのです。

主イエスが過越祭を前にして、香油を注がれたことによって、その思いを固くされることになったと言いましたが、それは、十字架に命をささげられることに、いよいよ思いを深められたということです。私どもを罪の滅びから救い出すためには、御自身の命の犠牲によるほかはなかったのです。過越祭は、出エジプトの時に、小羊の犠牲によって神の裁きが過ぎ越したことを記念する祭りですが、その過越しは、やがてメシアという神の小羊による犠牲によって神の裁きが過ぎ越すことを指し示しているのです。

主イエスは、マリアのしたことを受け入れ、言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(7)「葬りの日」とは、十字架に命をささげられる日のことです。マリアは、主イエスが命をささげられる日が来ることを知っていて、香油を注いだのです。その「葬りの日」が近づいた、直接のきっかけになったのは、マリアの兄弟、ラザロが主イエスによって生き返ったことです。驚くべき出来事によって、人々が主イエスのまわりに集まってきたとき、民の指導者たちは、人々のローマからの独立の期待が高まって、暴動にまで発展しないかと大きな危惧を抱きました。そして、主イエスを殺してしまおうと計画したのです。

さらには、「多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」(11)とあるように、主イエスだけではなく、ラザロをも殺そうと計画していたようです。

いずれにしても、主イエスは家が香りでいっぱいになったことを喜ばれました。そして、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と言われたのですが、原文ではもう一つの読み方があります。それは、「するままにさせておきなさい」という言葉は、「そのままにさせておきなさい」とも訳すことができるからです。

どういうことかと言いますと、「そのままにする」というのは、「残す」という意味合いですが、あとの香油は、「そのまま残しなさい、わたしの葬りの日のために、それを取って置くために」ということです。この読み方で訳している英語の聖書も確かにあります。実際は確かめることはできないのですが、主イエスのメシアとして、神の小羊としての犠牲がささげられる準備となりました。

私どもはマリアにならっていきたい、しかし、私どもはナルドの香油を持っていません。初代教会のキリスト者も、礼拝のたびごとにナルドの香油をささげて、礼拝堂を香りでいっぱいにしたわけでは、もちろんありません。しかし、メシアである主イエスのもとにひざまずき、香油を塗って、大切な髪でぬぐった行為は、礼拝の心として受け継がれてきたのではないでしょうか。

主はすべてをご存知であって、私どものささげる賛美を、祈りを、信仰の思いを、神にささげる香りとして喜んで受け取ってくださるのです。わずかな香油が家一杯にその香りが広がったように、私どもの小さな信仰の思いを主は十分に受けてってくださることができるのです。マリアのようにじっさいにひざまずかなくても、ひざまずく思いをささげていきましょう。主が、私どものささげる賛美を、祈りを、信仰の思いを、必ず受けとめて喜んでくださることを信じていきましょう。イザヤ書の言葉を思い起こします。

「わたしが顧(かえり)みるのは 

苦しむ人、霊の砕かれた人

わたしの言葉におののく人。」(イザヤ66:2)

イザヤ書にある、「苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人」とは、ナルドの香油を注いだマリアの姿ではないか。さらには、私どもに礼拝の心を与える御言葉として、信じて受けとることができるのです。私どもは主イエスの犠牲による救いの恵みによって、主イエスのもとにひざまずくことができるのです。

御言葉は、信じる人の中で御言葉の出来事が生まれるのです。

「苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人」として生きる恵みが与えられていることを信じていきましょう。

 

 
 
 

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