2026年7月5日(日)
- shirasagichurch
- 5 日前
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【聖霊降臨節 第7主日】
礼拝説教「分かれ道に立つとき」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 11:45-57
<讃美歌>
(21)26,18,202,411,65-2,29
与えられています箇所は、 「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」(45)とあります。主イエスのなさったことは、墓に葬られたラザロに対してなさったことです。主イエスは「ラザロ、出て来なさい」(43)と語りかけられ、その御言葉の通りに、ラザロは墓から出て来たのです。それを目撃した人々の多くは、主イエスを信じました。
私どもがその場にいたなら、どう思ったでしょうか。あまりの驚くべき出来事に、受けとめきれない思いが起こるのではと思いました。主なる神が働かれて出来事が起こるときに、すぐには受けとめられないこともあるのではないか。しかし、多くの者が主イエスを信じたとあるのは、幸いなことです。その幸いに、ヨハネによる福音書を記したヨハネも、当時の教会も感謝な思いを重ねたはずです。
改めて、主イエスのなさったこと、「ラザロ、出て来なさい」と語りかけられ、その御言葉の通りに、ラザロが墓から出て来たことに思いを深めていきましょう。それはヨハネが、「ラザロ、出て来なさい」と語りかけられ、その御言葉の通りに、ラザロは墓から出て来たことに何を見ていたかということです。
そのように問いかけますと、ある方は、それは救い主の姿だと言われるかもしれません。救い主は旧約聖書ではメシア、新約聖書のギリシャ語ではキリストとカタカタ表記します。私どもは、あのベツレヘムに生まれ、ナザレで育ったイエスというお方が、救い主であることを信じる教会の群れです。教会は、主イエスを信じて信頼し、従っている者たちであって、その信頼は、死に際しても持つことができることを、ラザロの墓での出来事が示しています。
ラザロは特別に墓から生き返って出てきましたが、私どもと主イエス・キリストとのつながり、救いの恵みは、死をも超えていくことが、ラザロの出来事によって示されているのです。もちろん、この箇所で「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」とある、信じたことの中身は、表面的なこともあり、深められていく必要があったでしょう。どういうことかと言いますと、驚くべき出来事、奇跡によって信じると、もっと大きな奇跡を見たい思いにとらわれることがあります。そのような奇跡によって信じていくと、もっと大きな出来事、とくに自分が望むようなことが起こらなくなると、信仰を失っていくことがあるのです。
ヨハネによる福音書を受けとった当時の教会は、ある意味で私どもと同じく、地上におられる主イエスを見ることなく信じていった人々です。むしろ、迫害の厳しい時代の中で、主よ、どうしてですか、いつまでですか、と叫ぶように祈る中で生きていきました。私どもも、さまざまなことが起こる中で、悲しみ、嘆き、ときには叫ぶように祈りながら共に生きているのではないでしょうか。
ヨハネの教会は、多くの人々が信じたことに思いを重ねながら、なお、自分たちの信仰が深められていく必要があると思ったはずです。それは、主なる神にとらえられていく意味で、深められていく必要であって、主イエスの御言葉に、聖霊の助けによって立ち続けていったはずです。当時の教会やヨハネは、何を見たのでしょうか。
「ラザロ、出て来なさい」と語りかけられ、その御言葉の通りに、ラザロは墓から出て来たことは、ヨハネによる福音書が冒頭で記した、主なる神の姿と重なっているのです。ヨハネによる福音書1章1節には「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とありますが、「言は神であった」と言われているのは、主イエス・キリストのことです。1章14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあるのは、救い主の降誕のこと、「独り子である神」(1:18)主イエスが私どものひとりとなってくださったことです。
「宿られた」という言葉は、天幕を張るという意味合いがあって、旧約の時代に、荒れ野を旅しながら、天幕を張って礼拝をしていたことを思い起こす表現です。それは、私どもと共に生きて旅をしてくださっていることで、礼拝をささげる私どもと共にいてくださり、主なる神として臨在してくださっているのです。
ヨハネによる福音書の冒頭に、「万物は言によって成った」(1:3)とあるように、主なる神が「光あれ」(創世記1:3)と言われると、その御言葉の通りに「光があった」のです。その創造の出来事と重ねるように、ヨハネは、主イエスが「ラザロ、出て来なさい」と語りかけられ、その御言葉の通りに、ラザロは墓から出て来たことを見たのです。生き返ったことは驚くべきことですが、そこに、御言葉の通りにそこに出来事が起こる、創造の神の姿を見たのです。
しかし、そのような主なる神の姿、救い主の姿を見ることができない者たちもいました。「祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』」(47-48)と危機感を抱いたのです。指導者たちが危惧(きぐ)したのは、多くの人々がイエスに従っていくと、人々の期待が、ローマからの独立のようなものにふくれあがって、それを察知したローマ帝国が、そのような動きを封じようとすることが予想できたからです。暴動のようなことに発展すれば、 「我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と予想して、どうすればいいのか、悩んでいるときに、大祭司であったカイアファが言いました。大祭司とは祭司たちの代表です。
「あなたがたは何も分かっていない。 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」(49-50)「あなたがたは何も分かっていない」とは、自信に満ちた言葉で、多くの祭司長たちや最高法院の議員たちを前にして、「あなたがたは何も分かっていない」と彼らを裁いて、「 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と、イエスを殺すことを決意させようとしたのです。
しかしヨハネは、「あなたがたは何も分かっていない」というカイアファの言葉をカイアファにそっくり言い返すように、彼自身が分かっていないところで預言して言ったと語ります。すなわち、主イエスが十字架に殺されることは、神のみこころにかなったご計画であるということです。「その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」(51-52)
「散らされている神の子たち」とは、ヨハネの教会の者たちは自分たちのことだと信じて記したはずです。自分たちがこうして集まって、天幕を張るように礼拝しているのは、主なる神が集めてくださったから、主イエスが救い主として、いのちをささげてくださったので、罪をゆるされて救われる道が開かれたからだと感謝していったのです。
55節に「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。」とあります。過越祭は、どういう祭りでしょうか。それは、出エジプトのときに、神の裁きがあったのですが、小羊の犠牲によって、その裁きを過ぎ越してもらったことを記念する祭りです。ですから、犠牲の小羊をほふって、それを各家庭に分けて感謝の祈りをささげていったのです。まさに主イエスは神の犠牲の小羊です。洗礼者ヨハネが主イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)と言ったことが、実現したのです。主イエスは、御自身の命の犠牲によって、私ども罪を取り除いてくださるのです。
最後になりますが、「分かれ道に立つとき」という説教題をつけました。主イエス・キリストは、殺そうとする者たちを前に、それを避けることはいくらでもできたはずです。しかし、人の思いではなく、神の思い、みこころにしたがっていかれました。その主イエスが私どもと共に宿ってくださっています。私どもも、人の思いに振り回されるようなときにも、どう進めばいいか迷うときにも、神のみこころを歩み通してくださる主イエスが共にいてくださることを信じて、共に生きていきましょう。
イザヤ書の言葉を思い起こします。30章18節「それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたを待ち それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。」どのように恵みと憐れみを与えてくださるのか、21節にこうあります。「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け 右に行け、左に行け』と」
主イエスこそが、父なる神からの言葉を聞き取って、行くべき主の道を歩みぬいてくださいました。私どもを待っていてくださる、主なる神の招きによって礼拝をささげることができます。私どもと共に生きて宿ってくださる主イエスのもとにいつも帰ってくるように礼拝をささげ、主イエスの御言葉の恵みと憐れみによって、主の道を生きていきましょう。





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