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2026年6月28日(日)

【聖霊降臨節 第6主日


礼拝説教「主イエスは涙を流された」


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 11:28-44


<讃美歌>

(21)26,12,127,532,65-1,29

 

 与えられています箇所には、主イエスの感情の動きと言っていいことが、いくつも記されていまが、お気づきになった方もあると思います。このような箇所はとてもめずらしいと言うことができます。33節で「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」とあり、さらには、35節には「イエスは、涙を流された。」とあります。

 心に憤りを覚え、興奮して、・・・涙を流された、この主イエスの姿をどう思われるでしょうか。親しみを感じるでしょうか。あるいは神の子ともあろう方が、もっと冷静であるべきなのに、そんなに思いをあらわにしていいのか、と批判するでしょうか。主イエスはすべてをご存知であるのだから、すなわち、ラザロを生き返らせることをなさることを知っておられたはずです。考えてみますと、すべてをご存知である主なる神である主イエスが、同時に、心に憤りを覚え、興奮して、・・・涙を流されたことは、結びつきにくいかもしれません。しかし、主イエス・キリストとは、まさにそのようなお方であることがここに示されているのです。

 主イエスが感情をあらわされたのは、マリアに出会われたときです。マルタが呼びに行って、マリアは主イエスのもとに行ったのですが、おそらくマルタも一緒について行ったでしょう。マリアが深く悲しみ、涙を流していることに、主イエスは寄り添われました。そして、心に憤りを覚えられ、興奮されたのは、どうしてだったのでしょうか。

こういうことについては、ご一緒に黙想して分かち合ってもいいのですが、どう黙想するかというのは、この個所から離れないで考えていくことが大切です。御言葉とコンタクトしてつながりながら、考えるというのです。一つには、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て」そうなさったのですから、「見て」という言葉が示す、主イエスは何を見られたのか、ということです。彼らが泣いている涙の表面的な姿を見られたのではなく、その涙のなかにある深い思いをすべて見られたのです。もっと言うと、彼らが人の死に際して絶望し、「ラザロが死なないようにできなかったのか」(37)と言ったような不信仰な思いに対して憤りをおぼえられたかもしれません。

あるいは、ひとつに絞ることはできないかもしれません。人の死というものが、いかに厳しいものであり、愛する者を引き裂くか、それは、主イエス御自身がラザロの死に際して、深い、心を引き裂かれる思いを私どもと同じように、いやそれ以上に愛する思いをあらわにされたのではないか。それはどの言葉と結びつくかと言うと、彼らも、主イエスの姿と言葉に「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」(36)と言ったことから言えるのです。ある方は、憤りは分かるけど、「興奮して」とあることに、引っかかるかもしれません。「興奮して」とあるのは、ある英語の訳では、苦しまれて、悩まれてという意味で訳しています。その英語聖書は「憤られた」ことは、霊的に心動かされた、としています。霊的に心を揺り動かされ、悩み苦しみぬかれて、と訳したほうがいいかもしれません。

 ヨハネによる福音書は、ラザロが生き返らせてもらうのですが、そのことよりも、主イエスが彼の死に際して、涙を流されて愛をあらわされ、霊的に動かされ、共に悩み苦しまれたことに、大きな慰めを与えられたはずです。その主イエスの愛の働きが死をも突き抜けて働くことを信じていった、そのしるしとしてラザロが特別に生き返らせてもらったということです。主イエスが私どもと共に生きて、涙してくださり、心を動かして共に悩みぬいてくださる、それは私どもに代わって悩んでくださると信じてもいいのです。その主の愛の働きは死を超えていく、そのことを思い巡らす時に、「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」(11:25)と言われた御言葉と結びつきました。「わたしを信じる者は死んでも生きる」とは、主イエスが、私どものために涙を流されて愛をあらわされ、霊的に動かされ、共に悩み苦しまれる、その主イエスの愛の働きは、死をも突き抜けて働くことです。

先週、日本キリスト教団の新任教師オリエンテーションという研修会が熱海で、二泊三日で開催されました。そのときに、ある牧師が礼拝で、こんなことを話されました。それは、三浦綾子さんが経験されたことだそうです。ある方を訪問されたとき、その方が言われた。「わたしは、何もかも忘れてしまいました。何も覚えていません。でも主さまのことは忘れることはありません。」主さま、というのは主なる神のことで、カトリックの教会員の方ではないかと思います。たとえすべてを忘れて思い出せないようなときにも、主さま、主イエスを覚えていることができたのは、それは主がとらえてくださっているからです。

 主イエスが私どもをとらえてくださる恵みを、その説教者は、フィリピの信徒への手紙4章5節6節によって語りました。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩(わずら)うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」その説教者は、「何事につけ」という言葉を5回ぐらい繰り返して、強調して読んでくださいました。   

「何事につけ」が強調されるのは、いかなるときにも「感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と語られる恵みに生きることができるからです。また、ただ求めているものを神に打ち明けるのではなく、「感謝を込めて」とあるように「感謝を込めて祈りと願いをささげ」ていくことは、心に刻むべきことです。このフィリピの信徒への手紙の御言葉は礼拝の招きの言葉として聞くことができます。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩(わずら)うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

 この御言葉と共に思い起こす、新任教師の方がいます。同じ分団で話されて、私は4人ほどのグループの助言者でしたが、私が教えられる思いがしました。その方は高校を卒業して、ある神学校の学部に学ばれたのですが、大学院に進むときに家庭の事情で断念されて一般の会社で働きにつかれ、やがて結婚して家庭も持たれたそうです。その女性は30年ほどたって、お子さんたちも成長されたとき、お連れ合いが脳腫瘍によって天に召されました。そのときに、悩み苦しまれ、祈る中で、自分は主の御言葉を伝えていく道にもう一度生きていきたいという願いが起こされたそうです。そして30年ぶりに神学校に学び直されて大学院も卒業され、教師となって新任教師オリエンテーションに来られ、自分がいまあることは、こうしてこの研修会に来られているのは、神様の恵みによるほかはない、と告白されました。

 私はその教師の話を聞きながら、主はすごいことをなさる、と主をたたえました。主が共に生きて涙され、また共に心を深く動かして悩み苦しんでくださって、その教師と共におられることを見る思いがしました。そのことは「主はすぐ近くにおられます」と御言葉にある通りです。

 ラザロの墓に行かれた主イエスは、「ラザロ、出て来なさい」と大声で語りかけられ、その御言葉の通りに、ラザロは墓から出てきました。それは、ラザロの生き返りです。私どもに向かっても、主は名を呼んで「〇〇よ、出て来なさい」と語りかけてくださるのです。それはやがて、死に際して、死から起き上がらせて、死を超えて主と共に恵みに生かして、共に生きてくださるのです。そればかりか、私どもは死を超えた恵みを今から経験しているのです。困難や自分の深い思いの中で苦しんで閉じこもるような私どもに主は、「何事につけ」そこから「出て来なさい」と、主の恵み、主と共に生きる喜びに引っ張り出してくださることを、信じていきましょう。


 
 
 

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