2026年6月14日(日)
- shirasagichurch
- 2 日前
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【聖霊降臨節 第4主日】
礼拝説教「死で終わらない」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 11:1-16
<讃美歌>
(21)26,13,54,450,65-1,29
礼拝では、ヨハネ福音書から主の御言葉を聞き取っていますが、11章に入りました。ヨハネ福音書は全部で21章ですから後半の始まりということですが、この11章で主イエスが十字架へと向かわれる決定的な出来事が起こりました。主イエスがなさったことが、十字架へと向かわれる大きなきっかけとなったのです。それはラザロが生き返ったことです。次の章の12章ではエルサレムに行かれて、大勢の群衆が迎えます。そして、13章では最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われて、その最後の晩餐の席で語られたことが、ていねいに記されていきます。ですから、ヨハネ福音書は主イエスのエルサレム入場からの一週間の出来事、それは十字架の死と復活ですが、そのことと復活なさったあとのことに、その記事の大半を用いているのです。そのために、この福音書を書いたわけですが、そのもっとも中心的な出来事の始まりが、今日の箇所であります。
ラザロが病気であって死にそうであった。5節に主イエスは「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とありますが、主イエスが愛をもって踏み出していかれたことに、思いを深めていきましょう。
ラザロのことを、主イエスが「わたしたちの友」(11)と呼んでおられます。瀕死の状況で、マルタとマリアは、その兄弟ラザロの看病で離れることができなかったのでしょう、人をやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」(3)と伝えました。そのとき、主イエスは語りかけられました。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである。」(4)「この病気は死で終わるものではない」と聞いた人々は、死なずに助かると思ったかもしれません。使いの者も、一刻も早く主イエスをお連れしたいと思っていたでしょう。主イエスと弟子たちがおられた町はラザロのいるべタニア村からは2,3日の距離があるヨルダンの向こう側です。多くの人が主イエスを信じて従っていこうとしていたので、彼らにさらに教えておられたのかもしれません。すぐには出発されず、「二日間同じ所に滞在された」(6)のです。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」とは、おそらくヨハネ福音書を受けとった教会の者たちに、大きな慰めとなったはずです。どう慰められたのでしょうか。このヨハネ福音書にあるラザロは、病気で死んで墓に葬られましたが、主イエスによって生き返らせてもらいました。同じことが起こると信じて慰められたのでしょうか。そうではなく、自分たちはたとえ死を迎えることがあっても、それで終わらず、神の栄光へと召されていると信じていったのです。
考えてみますと、ラザロは生き返らせてもらいましたが、地上での命を終えるときがきたでしょう。ラザロという名前が記されているのは、彼が生涯、主の弟子として従っていった、初代教会で名前が知られていたからでしょう。しかし、彼も地上での生涯を終えるときに、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」との御言葉が、彼を慰めたのではないか。ラザロが病気で亡くなったかどうかはわかりませんが、私どもに死をもたらす原因がさまざまにあったとしても、主イエスは「死で終わるものではない。神の栄光のためである」と、神の愛をもって語りかけてくださるのです。聖書の原文を直訳しますと、「この病気は死に向かっておらず、神の栄光のため」となります。意味をとって訳しますと、「この病気は死に向かわず、神の栄光へと向かっている」ということです。 いかなるときにも、たとえ死に際しても、私どもを神の栄光へと向かわしてくださる、神の愛の働きを信じていくことができるのです。
先週、私事ですが、休みをいただいて郷里の姫路に行きました。昨年の6月に父が天に召されて1年になりますので、母や兄弟と祈りをささげてきました。そのときに、「この病気は死で終わるものではない」との主の御言葉が、慰めの言葉として心に響きました。父が地上での生涯を終えて死を迎えたことは、それですべてが終わったわけではない、神の栄光へと召されて、主の御手の中に守られていると信じて、改めて主にすべてをゆだねました。
主イエスが地上でのお働きをなさっておられたとき、すべての病気が無くなったわけではなく、ラザロのように生き返らせてもらった人は、ごく限られた人だけでした。その人たちは、主の救いのしるしとなったのです。ラザロが生き返ったことは、主イエスの復活のしるしとなりました。
しかし人々には、死人が生き返った、という驚きの出来事でしかなかったはずです。45節には「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃した人の多くは、イエスを信じた」とあります。そのことがエルサレムの町中にひろがり、指導者たちは危機感をいだきました。それが、イエスを死に追いやろうとした大きなきっかけになったのです。このまま群衆がイエスに従っていくと、ユダヤを支配しているローマ帝国が、危険視するのではないか、民衆がイエスと共に反旗をひるがえしてローマから独立しようとすることの火種を消すために、48節にあるように「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と危機感を抱いたのです。そのとき、指導者たちの中心にいた、その年の大祭司カイアファが言いました。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか。」(50)彼らは主イエスを殺そうと、たくらみを始めていきました。
しかし、人のたくらみを超えたところで、主の救いの計画はすでに始まっていたのです。8節で主イエスが「もう一度、ユダヤに行こう」と弟子たちに語りかけられたとき、主イエスはどこへと向かっておられたか、深く知っておられました。それは神の栄光へと向かっておられて、十字架の上で神の栄光をお受けになるためであることを深く知っておられました。
弟子たちも、石で殺そうとした人たちのいるところへ再び向かうのは危険だと知っていました。弟子のひとりのトマスも「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16)とさえ言って、覚悟を決めていたようです。しかし、弟子たちの覚悟はもろいものであって、主イエスだけが、十字架への道を歩みぬかれました。むしろ、主イエスは、一緒に死ぬことを赦されなかったのです。
主イエスは知っておられました。救いの道が切り開かれるための犠牲は、主イエス御自身ただひとりのみで十分であり、主イエスの犠牲によらなければ救いの道は開かれることがなかったのです。
主イエスが十字架の上に神の栄光を受けて、道を開いてくだったので、「死で終わるものではない。神の栄光のためである」と今もなお、語りかけてくださるのです。栄光という言葉は、主イエスは旧約聖書の言葉で元々は語られたでしょう、それは「カボード」という言葉で「重み」という意味があります。栄光は輝きだけではなく、そこに重みがあります。それは愛の重みであり、十字架の尊い犠牲の重みであります。
神の愛の重みは、御言葉の重みであり、主イエスの尊い犠牲によるのであって、軽々しく受け取ることはできません。「死で終わるものではない。神の栄光のためである」と今もなお、語りかけてくださる主の御言葉を信じて受けとっていくとき、その御言葉が私どものからだの一部となって、恵みの重みとなるのです。





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