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2026年6月21日(日)

【聖霊降臨節 第5主日


礼拝説教「主イエスは復活であり命」


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 11:17-27


<讃美歌>

(21)26,19,50,316,65-1,29

 

 与えられています箇所には、「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」(17)とあります。お気づきの方もあると思いますが、主イエスはまだラザロの墓には行っておられません。マルタが主イエスを迎えに行くのですが、それは村のはずれです。墓地は、村のはずれにあったでしょうから、そこでラザロの死を誰かから知ったことは考えられます。しかし、聖書の原文を読みますと、「さて、行かれたとき、イエスはラザロ(彼)を見られた、すでに四日墓の中に。」と直訳することができます。主イエスはラザロを見られた、そのことは墓の中に入られたわけではありません。外から、のことです。もっと言うと、墓地に行かれる前にすでに主イエスはラザロを見出しておられたのです。どういうことでしょうか。

 べタニア村に立たれた主イエスは、すべてをご存知である主なる神として立っておられるのです。べタニアに行かれたときに、すでにラザロを見出し、彼がどのような姿でいるか、神のまなざしで見ておられたのです。そのまなざしは、私どもにも向けられて、すべてを知って見てくださっているのです。べタニア村はエルサレムから「十五スタディオンほどのところに」(18)ありました。3キロ足らずの距離です。マルタとマリアの家に、兄弟ラザロのことで多くのユダヤ人が慰めに来ていたのです。(19)このことは、葬儀の営みが行われていたと思われます。

 ある神学者が書いていますが、当時は医療が十分ではなかったので、果たしてほんとうに死んだかどうかを判断するのに、四日ほど様子を見ていたそうです。ですから、葬儀は7日ほど続いた。誰かが死んだことを知らされると人々が集まりました。しかし、息を引き取ったかに思えるけれども、しばらくして起き上がるということがあったようです。起き上がるまでにならなくても、2・3日してから目を開いてまわりの者に反応することもあったので、四日して確かに死んだと判断して墓に葬られた、そのような葬儀のときに、村人たちが集まっていたのです。

マルタが家から出て、主イエスを迎えました。マルタは主イエスに「主よ、もしここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(21)と言いました。もっと早く来ていただきたかった思いがあったのでしょう。マルタは深い悲しみの中で、主イエスへの思いを告白しています。「しかし、あなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(22)この告白は深い信頼、それは信仰と呼べるものです。

マルタの信仰の告白に対して、マルタの思いや理解を超えた、主イエスの御言葉が語りかけられました。「あなたの兄弟は復活する」(23)、マルタはラザロが生き返らせてもらえることは全く想像もしていなかったはずです。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」とマルタは応答しました。(24)この信仰の告白は、ヨハネによる福音書が書かれた当時の教会の告白ですが、また、マルタがそう信じていたことは、ファリサイ派の者たちが教えていたことでもありました。「終わりの日」とは神の救いが完成していく日であり、終末の希望が告げられています。もちろん、主イエスは終わりの日の希望に立たれて語りかけられたはずです。

主イエスはさらに語りかけられました。「わたしは復活であり、命である。」(25)「わたしは復活であり、命である」という聖句は、とても愛されてきた聖句です。教区の墓地が小平霊園にありますが、確か「我は復活(よみがえり)なり、命なり」と文語訳で刻まれています。

主イエス・キリストは、ラザロの葬儀のときにマルタに対して「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と語りかけられました。主イエス御自身が「復活であり、命である」ということは、ご自身の復活の命が、信じる者と共にあるということです。主イエスが私どもの中に生きてくださるので、死は終わりではなく、死に際しても、主イエスと共に生きることがゆるされている、そのことを主イエスは語り直されています。

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(26)「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」とは、地上で永遠に生きることではありません。主イエスを信じる者が、たとえ「死んでも生きる」ことを言われました。死んでも主イエスと共に生きていくことは、死に支配されていくことではないので「決して死ぬことはない」と言われたのです。ある英語の聖書は「永遠に向かって死ぬ」という意味で訳しています。原語には、「永遠にむかって」という言葉がありますので、永遠の命、復活の約束の中で死ぬということです。「このことを信じるか」と主イエスは問われます。

マルタははっきりと言いました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(27)私どもも、主イエスから「わたしを信じる者は、死んでも生きる。…このことを信じるか。」と問われるとき、マルタにならって、「はい、主よ、信じます」と告白することができるのです。

主イエスは主なる神として立っておられる、とはじめに言いました。そのことは、マルタに続いてマリアにも会われたとき、その涙に接して、「心に憤り」(34)をおぼえられたことは主の憤りです。そして、主イエスもまた「涙を流された」(35)のです。葬儀のときに、牧師として何度も司式しながら、慰めの言葉を自分が元々持ち合わせていないのですが、そこに共にいてくださる主イエス・キリストの慰めの言葉によって愛する方々を天に送ってきました。

主イエスは私どもの死を、だれしも死ぬのだというような、あきらめや悟りきった思いで見ておられるのではないのです。共に嘆き、死がどれほど私どもを苦しめ、愛する者たちを引き裂くか知って共に涙してくださる、とくにラザロのように人生の途上で死を迎える者をご覧になって、死に対して「心に憤り」を抱いてくださるのです。私どもが死にのみ込まれてしまわないように、死に対決して勝利し、主イエスは救いの道を開いてくださいました。

主イエス・キリストは今もなお、「わたしは復活であり、命である」と語りかけ、私どもと共にどこまでも生きてくださる主であることを信じていきましょう。共に苦しみ、共に涙してくださる主が、私どもの慰めてなってくださいます。その慰め主であるお方が、「わたしは復活であり、命である」と語りかけてくださるのですから、主イエスの確かさに身を置いて、生きていきましょう。


 
 
 

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