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2026年6月7日(日)

【聖霊降臨節 第3主日


礼拝説教 「神の言葉と業(わざ)を受けとる」


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 10:31-42


<讃美歌>

(21)26,11,132,454,65-1,29

 

与えられています箇所は、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」(31)とあります。主イエスに石を投げつけて殺そうとしたのですが、彼らは正義感にかられてそうしようとしました。ヨハネ福音書を受けとった初代の教会は、とてもつらい思いになったのではないか。なぜ、つらい思いになったかは、人の罪深さは、救い主であっても殺してしまおうとするほどのものであって、自分たちも人ごとではないと思ったからではないか。あるいは、正義感にかられた彼らの気持ちが分かることが、つらかったのかもしれません。

それは、人が自分は正しいと思い込んで、自らを正しい立場に置くときに、その罪深さはもっとも分かりにくく、救い主に対してさえ、裁いて殺そうとするからです。主イエスに対して石を投げようとした人々は、主イエスが人となられた神であること、神の独り子であることが分からないで、神を冒涜(ぼうとく)していると思い込んで、裁かなくてはならないと正義感にかられていた。福音書を受けとった教会の者たちも、自分たちも主が教えてくださらなければ、信じることはできなかったことを深く知っていたのです。キリスト教会でも、間違った正義感が、互いを傷つけ、主の道からずれてしまうことがあることを心に刻んでおく必要があります。

石を取り上げて、殺そうとする者たちに、主イエスは語りかけていかれました。34節から36節です。「そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。 」

間違った正義感にかられて、殺そうとする者たちに、向き合って語りかけておられる姿に、愛である神の姿を見ることができるのではないでしょうか。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。 」と主イエスが言われたのは、詩編82編の引用です。

詩編82編では、神の言葉を受けた人たちが、確かに「あなたたちは神々」(6)と呼ばれています。ただ詩編ではとてもめずらしい表現です。「神の言葉を受けた人たち」というのは、「神の言葉を託された人たち」という意味ですから、それは指導者たちのことです。その指導者たちが、「いつまであなたたちは不正に裁き 神に逆らう者の味方をするのか。」(2)と主なる神に裁かれている詩編です。主なる神が厳しく「弱者や孤児のために裁きを行い 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い 神に逆らう者の手から助け出せ。」(3)と語っておられます。おそらく、聞いていたユダヤ人の中には、律法学者である指導者がいたと思いますので、主イエスが引用された詩編によって、指導者たちを戒めておられることも分かったはずです。しかし、それは断罪して退けるためではなく、ふさわしい道へと導くためです。ただ、彼らはその指摘によって、よけいに、このイエスを殺してしまおうと思ったのではないか。

いずれにしても、「わたしは言う。あなたたちは神々である」という言葉は、注意して読む必要があります。キリスト者は神の家族の一員であり、救いによって神の子とされるのですが、「神々」という表現は、あえて詩編を引用して主イエスが語られたのであって、キリスト者に対して使いません。しかし、本来なら主イエスだけが神の子と呼ばれるにふさわしいのですが、救いによって私どもも、神の子としていただくのは、もったいない、驚くべき恵みです。そのもったいなさ、尊い恵みを恵みとして、当然のことではないことを忘れてはならないのです。

37節38節で、正義感と敵対心にかられた彼らを、主イエスは信仰へと招いておられます。

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」 「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」とさえ言われます。主イエスの業(わざ)は、福音書を受けとった教会の人々にとっては、主イエスが私どもに代わって神の裁きをその身に受けて十字架にいのちをささげ、また死から復活されて、教会の牧者となっておられることです。その主イエスをはっきりと見るように信じることができない時代の人々にとっては、それは私どもも同じですが、主の御言葉と救いの業(わざ)を受けとった教会のキリスト者によって信じていったのです。

私どもは、自分のような者が赦され受け入れられているのだから、あなたも仲間になりましょう、と喜びと感謝をもってキリストを信じる信仰へと招くことができるのです。主イエスも私どもの内に働いて招いておられます。

39節に「そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。」とあります。彼らはこのとき、主イエスの招きを受け取らなかったことは、とても残念でつらいことです。ヨハネ福音書を受けとった教会の中には、かつては主の招きを受け取らなったけれども、いまはそうではない、というキリスト者が幾人もいたでしょう。

「イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた」という言葉を思い巡らしましたが、それは主の時が来ていなかったからでしょう。あるいは、主イエスは、そうなさろうとされれば、ずっと「彼らの手を逃れて」いかれることもできたはずです。やがて、あえて彼らから逃れることをなさらなかったのは、主の時が来たからですし、神のみこころに委ねて従っていかれたのです。神の道を選び取って、委ねていかれたのです。

主イエスは、ヨルダンの向こう側、ユダヤ人にとっては、まことの信仰に生きていないとさげすむ人々のところへ行かれました。40節以下「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』そこでは、多くの人がイエスを信じた。」(40-42)「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」とは、主イエスの言葉と業(わざ)を受けとったということです。「この方について話したことは、すべて本当だった」とは、語られた御言葉の通りに、業(わざ)、御言葉の出来事がそこにあったということです。

私どもも、主イエスの語られたことは、すべて本当だった、と告白することができるのです。喜びと感謝をもって、御言葉を信じて受けとっていくときに、その御言葉が私どもの生活の一部、私どもの命となって生きることができるのです。この個所は「わたしは良い羊飼いである」(11)と言われた主イエスの御言葉の恵みのもとにあります。「わたしは良い羊飼いである」(11)と言われた主イエスの御言葉が私どもの生活を生かしていることを、身をもって受け取り生きていきましょう。

 

 
 
 

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