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2026年5月24日(日)ペンテコステ礼拝

【聖霊降臨節 第1主日


礼拝説教   「賜物として聖霊を受けます」


 願念 望  牧師

 

<聖書>

使徒言行録 2:29-42


<讃美歌>

(21)26,342,346,409,聖餐81,65-1,29


 この朝は、ペンテコステ礼拝を共に献げています。ペンテコステはキリスト教会の誕生日と言われます。主なる神が教会を生み出し、また支えてくださっている、教会に将来を与えてくださるのは主なる神であることに思いを深めていきましょう。

 ペンテコステは、2章の1節に「五旬祭(ごじゅんさい)の日」であったとありますが、「五旬祭」は原語で「ペンテコステース」という言葉です。ここからペンテコステという言葉を用いています。直訳すると「第50」という意味です。元々「五旬祭」は当時の収穫感謝祭として、またモーセの十戒が与えられた日として持たれていたようですが、主イエスの復活から50日目に聖霊がくだったことを記念して、キリスト教会はペンテコステを祝うようになったのです。

 

 教会は聖霊が与えられた日を記念して感謝の礼拝をささげてきたのですが、聖霊は、目に見えない主なる神の霊、あるいは主ご自身と言ってもいいのです。聖霊は、聖書では神の霊(Ⅰペトロ4:14、フィリピ3:3)、イエス・キリストの霊(フィリピ2:19)とも呼ばれますが、主なる神が目には見えないけれども共にいてくださるのです。霊という言葉「プネウマ」は、旧約聖書のヘブライ語を背景に持ちますが、風とか息という意味合いです。風は見えませんが、風が吹いていると木々が揺れたりしますし、風を感じることもできます。

主なる神が、風とも言うべき聖霊によって、教会を動かしてくださっていることは、私どもが礼拝をささげていることに現れます。礼拝で私どもが御言葉によって心を照らされて揺り動かされ、主の恵みの働きを感じるのです。それは、御言葉を共に聞く中で起こっている、御言葉と共に働いて導いてくださっているのは、聖霊なる神であるからです。また、聖霊が息であるということは、いのちの息ですが、教会にいのちの息が吹き入れられて誕生して生きるようになったのです。

祈りが呼吸にたとえられることがありますが、礼拝は祈りのときでもあります。私どもが祈りをささげているその祈りの息に、私どもが気づかないところで、息である主の聖霊の働きがあってこそ、祈りは祈りとなっていくのです。

 

 そのような、主なる神が私どもと共に生きて働きかけてくださる恵みが、ペンテコステの出来事を通して始まりました。最初は何が起こったのか、周りの人々にはよく分からなかったようです。しかしペトロがほかの弟子たちと共に立って、聖書の言葉によって説き明かし、説教をしたのが今日の箇所です。

 聖書の言葉によって説教したのは、どうしてもそれが必要だったからで、神の出来事がそこに起こっていても、それが聖書の言葉によって示されないと、人は理解して受けとめることができないからです。

 

 ペトロは、17節で、聖霊降臨の出来事が、聖書の預言の成就だと語りかけました。それは旧約聖書のヨエル書3章1節の引用です。この礼拝の招きの御言葉、招詞です。

「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。

 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」

 旧約の時代には、神の霊は特別な人にだけ注がれました。それは王や預言者です。そして神の霊によって、預言者が神の言葉を伝えました。しかし、主イエス・キリストか来てくださった新約の時代には、聖霊が信じるすべての人に注がれることになったのです。それは、主はすべての人を救いに導こうとなさっているからで、分け隔てなく共に生きてくださることのあらわれでもあります。ペトロは「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(21)と力強く語りかけました。

 

 ペトロはその説教の中で、主なる神が人々を罪から救い出して、神と共に生きるように導いておられることを語るのです。詩編16編(31)や110編(34-35)を引用して、十字架におかかりになった主イエスが、ダビデが預言していた救い主メシアだと語りかけます(31、34-35)。ペトロを通して、御言葉に伴う聖霊の働きによって心を打たれた人々は応答します。「わたしたちはどうしたらよいのですか。」(37)

 ペトロは語りかけます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38)この御言葉はとても重要です。

 悔い改めるというのは、神の方へと向き直ることです。すでに私どもの方を向いてくださっている主へと、信じて向き直るのが、悔い改めるということです。神へと向き直るからこそ、主の働きによって悪い思いや行いから離れていくことができるのです。

 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」先ほど言いましたように、この約束の御言葉はとても重要です。洗礼を授けられたときに、神からの賜物として聖霊を受けるということがはっきり約束されているからです。聖霊を受けることは、約束の出来事、信仰をもって受けとめることで、感覚で確かめるものではありません。私どもの側に、聖霊を与えられ、罪を赦していただく理由は何もないのですが、ただ、神の恵みの賜物としていただくのです。主イエスの救いとはそのような恵みの賜物です。

 ペトロたちは、「わたしたちは皆、そのことの証人です。」(32)と語りました。その言葉はとても深く重い告白です。「証人」という言葉は、主イエスが復活してくださって救い主としてお働きくださっていることの証人という意味です。

 しかし、初代教会で、やがて迫害が激しくなり、主が救い主であることの証人として生きることは、迫害のゆえに殉教の死をささげることが起こっていきました。そして、「証人」として主イエスを証言する、「証言」マルテュリオンという言葉が、「殉教」の意味でも用いられるようになったのです。

 「わたしたちは皆、そのことの証人です」と語ったペトロは、かつてどのような罪を犯してしまったか、彼自身がよく知っていたはずです。捕らえられた主イエス・キリストについて行こうとしたのですが、まわりにいた人にイエスの仲間だと言われると、「あの人を知らない」(22:57)と、三度も否定してしまった弟子です。しかし、彼にも赦しの道が与えられ、弟子としてもう一度仕えるようになりました。ペトロは、伝えられているところでは、殉教者の一人となりました。しかし、ペトロたちの体の命は奪うことができても、彼らの信仰をだれも奪うことはできません。彼らが伝えた主の救いをだれも奪うことができず、また主の救いの道を終わりにすることは誰もできないのです。

 私どももペトロたちの足跡にならって、主の救いの証人としての喜びに生きていきましょう。聖霊の働きは、最初の教会がそうであったように、礼拝を始まりとする教会生活のすべてにわたっています。主は私どもの礼拝を今も支え、赦しを与えて喜びと感謝に生かしてくださいます。その喜びと感謝は私どもの間だけにとどまることはない、礼拝から世に伝わっているのです。主が働いておられ、すべての人に神の救いをもたらそうとしておられることを信じていきましょう。これからも礼拝を始まりとして日々に感謝して、主の働きに仕えて、祈り励んでまいりましょう。 


 
 
 

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