2026年5月17日(日)
- shirasagichurch
- 4 時間前
- 読了時間: 7分
【復活節 第7主日】
礼拝説教 「主イエスの声を聞き分ける」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 10:22-30
<讃美歌>
(21)26,9,51,436,65-1,29
与えられています箇所には、「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われていた。冬であった。」(22)とあります。「神殿奉献記念祭」とは、どういう祭りだったでしょうか。そのことは、主イエスとユダヤ人たちとのやりとりと深く関わることですので、なぜこの祭りを祝うようになったか少し丁寧にお伝えしようと思います。
この当時、エルサレムにあった神殿は、かつてソロモンが建てた最初の神殿ではありません。ソロモンによる神殿はバビロン帝国によってB.C.587年ごろに破壊されてしまいました。ユダ王国は滅んで、おもだった者たちがバビロン帝国の捕囚となって連れていかれた。バビロン捕囚と呼ばれるものです。しかし神の憐れみと導きによって、B.C.539年にバビロン帝国がペルシャ帝国のキュロスによって征服され、やがてキュロスはユダヤ人に、祖国に帰って神殿を再建することを許可します。そして神殿を再建することができました。おそらくソロモンの時代の残っていた土台の部分は用いて建てたでしょう、B.C.515年ごろのことです。驚くべきことが起こったのですが、そのときの記念の祭りではないようです。
時代が300年ほど経ったころ、B.C.198年ごろ、ユダヤの国はセレウコス朝シリアの支配下になりました。王が代わってアンティオコス4世の時代になると、彼はユダヤ教を禁止して、あろうことか、エルサレム神殿にゼウス像、異教の偶像を立ててそれを拝むように強要したのです。B.C.167年のことです。そのことは、ユダヤ人たちには耐えられないことで、ユダ・マカベアが反乱を起こして、B.C.167年からマカベア戦争が起こった。結果、エルサレムを奪回して、ゼウス像を取り除き、神殿をきよめて神に再び奉献した。11月から12月ごろの冬のことでした。そのことを記念して、「神殿奉献記念祭」が、冬に行われていたのです。
なぜ丁寧にお話ししたかと言いますと、その祭りのときは、かつてのマカベア戦争での英雄ユダ・マカベアが当然思い起こされますから、その再来を期待する思いが強くなっても不思議ではありません。ソロモンの回廊を歩いておられた主イエスに(23)、ユダヤ人たちが取り囲んで問うています。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」(24)
彼らはマカベアのような人物の再来を待っていた、それは、ローマ帝国に支配されていて、そこからの解放を願っていたからです。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」とは、彼らの強い期待を示す言葉です。その期待は、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という言葉にも表れていますが、お気づきの方もあると思いますが、彼らの言うメシアは、マカベアのようなメシアです。それは、ローマ帝国に反乱の戦争を起こして、ユダヤを独立させてくれる英雄であるメシアです。
もちろん、聖書が語るメシアとは、ずれています。聖書は、ローマ帝国に反乱の戦争を起こして、ユダヤを独立させてくれる英雄であるメシアを伝えていません。ですから、主イエスは、ここで、御自身が彼らの期待するメシアだと言ってはおられない。しかし主イエスは、旧約聖書が預言して、人々が待ち望んでいたメシア(救い主)であるので、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」(25)と語りかけられました。主イエスの言葉と業(わざ)はひとつです。ですから「わたしが父の名によって行う業(わざ)が、わたしについて証している。」と言われました。「わたしが父の名によって行う業(わざ)」とは、直前の箇所で目に見えなかった人が見えるようになることもそうです。しかし、主イエスの業と言葉はひとつなので、語りかけてくださった御言葉と行為が、御自身が救い主(メシア)であることをはっきり示して証しているということです。
「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」とは、現代にも聞こえてくる声かもしれません。武器を使った戦争によって解決をもたらそうと、英雄を待つ声です。しかし、そのような英雄を主なる神が起こされると期待する声に対して主イエスは、「わたしが父の名によって行う業(わざ)が、わたしについて証している。」と言われるのです。主イエスは、戦争を起こそうと動かれたことは全くありません。ひたすら人々に救いを宣べ伝えられ、病をいやし、罪の赦しによる救いを与えていかれました。私どもが受けるべき神の裁きをその身に受けて救いを与えようと歩んでおられました。ですから、「わたしが父の名によって行う業(わざ)」は、十字架の死と復活のことを示しているのです。
「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」と詰め寄る者たちに、「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」(26)と言われました。突き放すような言葉に聞こえるかもしれません。しかし、強い招きの言葉でもあります。わたしの羊となるようにと主イエスは、信じない者たちをも強く招いておられたのではないでしょうか。主イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。」(16)と言われました。それはユダヤ人ではない人々のことだけではなく、むしろ、目の前にいる信じない者たち、敵対する者たちさえも招いて導こうとされる、神の言葉として聞くことができるのです。私どもも、「囲いに入っていないほかの羊」であって、もともと救いの囲いの中にいなくて、主に導かれたからこそ信仰に導かれたことを忘れてはなりません。主が導いてくださったから、主に養われる羊となったのです。
「わたしの羊はわたし声を聞き分ける。」(27)と言われましたが、主が導いてくださったから、主に養われる羊となり、主イエスの声を聞き分ける者となったのです。主イエスの声は、礼拝において、聖書の御言葉によって聞こえてくるのです。教会は必ず聖書から神の言葉、主イエス・キリストの声を聞き続けてきました。そのときに、聞き分けることができるように、神が聖霊として働いて、私どもに聞き取らせてくださるのです。ですから、いつも謙遜に主の導きを祈る必要があります。野原で養われる羊が迷いやすいように、私どもも自らの力に確かさをおいていくのではなく、主イエスの確かさに身を置き、神の愛の導きによって聞き取り続けていくのです。
主イエスは「わたしは彼らに永遠の命を授ける。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(28)と語りかけられました。永遠の命は、時間的な永遠よりも、その関係の完全さに永遠があります。とこしえにいます主なる神を信じて、その神の愛とつながって生きることにまさる全き関係はないのです。罪や悪はその悪や罪ゆえにいつかは滅んで、いつまでも続かない、しかし、主が与えてくださる救いの命、そこにある神の愛は滅びない。ですから「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言われました。そのような、神の愛に生きる救いは、人がどんなに頑張っても生み出せないもの、主なる神から与えられなければ得ることができない恵みです。聖書の語る恵みは、私どもに受ける理由や資格がないのに、神が愛をもって与えてくださるものです。恵みは、神の救いであり、永遠の命を恵みのなかで私どもは味わい続けていくのです。
永遠の命を恵みの中で味わい続けることは、礼拝生活の喜びです。どんなことがあっても大丈夫だという思い、神の確かさに身を置く平安に導かれ続けていくのです。
神の恵みを示すように、主イエスは語りかけられました。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(30)「わたしと父とは一つである」とあるように、主イエスと父なる神は全く一つです。それは、主イエスを知って、主イエスを救い主(メシア)と信じることは、父なる神を信じて知っていくことでもあります。そのときに、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」とあるように、主イエスが受けるにふさわしいもの、すべてのものより偉大なものを、私どもも分け与えられていくことに、謙遜な思いで従っていきましょう。
主は私ども一人一人を知っていてくださるのです。深く愛して知っていてくださいます。「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(27)「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と語りかけてくださる主イエスに確かさを置いて、どんなときにも信じて従っていきましょう。





コメント