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2026年5月3日(日)

【復活節 第5主日


礼拝説教  「主イエスの声を知っている」


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 10:1-6


<讃美歌>

(21)26,2,57,516,65-1,29

 

 先週、教会総会が開かれ、すべての議案が予定通り承認されました。そのなかで、長老選挙も行われ、選ばれた10人の長老がその任を受けとめてくださって、このあと就任式が行われます。教会役員のことを長老と言うのは、長老教会の伝統を白鷺教会が受け継いでいるからです。長老は、牧師と共にその教会の群れを牧会するつとめを与えられているので長老と呼びます。そのときに、牧師もまた長老のひとりとして、選ばれた長老たちと共に牧会します。ですから、牧師もまた長老のひとりで、宣教長老と呼ばれて、御言葉を語るつとめを与えられています。

 今日与えられています箇所で、主イエスは御自身を羊飼いにたとえて話されています。その意味では、主イエスがまことの牧師、羊飼いであって、牧師は主イエスのしもべ、弟子として仕えていることを忘れてはなりません。選挙で選ばれた長老たちもまた、牧師と共に主イエスのしもべ、弟子として仕えているのです。

 主イエスのたとえは、当時の人々がよく知っている、羊と羊飼いの関係、また羊の囲いの門番のことが語られています。羊の門番は、羊飼いではない人が来ても門を開けることはないのです。盗人や強盗は、門からではなくほかの所の柵を乗り越えて入ろうとするので、門番はそれを監視していました。夕暮れが近づくと、羊飼いに導かれて羊飼いは、囲いの中に入って守られます。朝になって、羊飼いが来ると、門番は門を開けて、羊飼いは羊たちを、草を食べさせるために連れ出すのですが、それぞれの羊の名を呼んで連れていくというのです。羊をそれぞれ知っていて、「耳長」とか名前で呼んで、呼ばれた羊は羊飼いの声を知っていてついて行くというのです。

 あれっと、思われた方もあるかもしれませんが、囲いの門を開けて、羊飼いの号令で一斉に出て行くのではなくて、それぞれの羊の名前を呼んで連れ出すのは、どうしてでしょうか。それは、ほかの羊飼いの羊もその囲いの中にいるからです。たとえばその地域で一つの囲いをもっていて、何人もの羊飼いのそれぞれの羊が、自分の羊飼いの声を聞き分けて、ちゃんとついていくというのです。

 羊が羊飼いの声を聞き分けるということでは、すぐに思い起こしたことがあります。私事ですが、昨年、父が天に召されて、その葬儀のとき、姉の子どもたちに久しぶりに会いましたが、その甥っ子姪っ子たちに子どもが与えられていて、写真だけで見ていた、その子どもたちに初めて会いました。半年ぐらいの赤ちゃんもいて、抱っこさせてもらった。ほんのしばらくは大丈夫だったのですが、私が「○○ちゃん、いい子だね。」とか声をかけますと、めそめそし出して「そうなの、だいじょうだよ」と言うと、途端に「ギャー」とけたたましく泣き出して、姪っ子が来てくれました。初めて聞く声なので、危険を感じたわけです。

 主イエスは「羊はその声を知っているので、ついて行く」(4)と言われました。聞いている人々がよく知っていることですが、なぜそのようなことを話されたのでしょうか。6節に「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らは何のことか分からなかった。」とあります。ファリサイ派の人々は、当時の羊飼いと羊の関係や門番のことをよく知っていたでしょう。しかし、主イエスの話されたたとえと自分たちはどうつながるのか、分からなかったのです。

 主イエスは何を、ファリサイ派の人々に聞き取ってほしかったのでしょうか。

 このたとえの背景には、エゼキエル書34章の言葉があると言われます。イスラエルの牧者たち、すなわち、群れを牧会する指導者たちが、主なる神から、群れを養っていないと戒められている箇所です。そして主なる神が、このように語りかけられています。「見よ、わたしは自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」(11)さらには、「わたしがわたしの群れを養い、憩(いこ)わせる、と主なる神は言われる。」(15)とあります。ファリサイ派の人々もよく知っていたであろう御言葉です。「見よ、わたしは自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」「わたしがわたしの群れを養い、憩(いこ)わせる、と主なる神は言われる。」というエゼキエル書の預言は、主イエス・キリストによって成就した、そのことを信じてヨハネは福音書を記したのです。

その意味では、主イエスは羊飼いのたとえを話されながら、御自身がまことの羊飼い、主なる神として立っておられることを語りかけておられるのです。そして、エゼキエル書で群れの牧者たちが戒められていたように、主イエスは、指導者であったファリサイ派の人々を戒めておられるのです。

彼らファリサイ派の人々はちょうど、このたとえを主イエスが話されたとき、ひとりの人を追い出したところでした。その人は主イエスに目を見えるようにしてもらったのですが、そのことをめぐって、主イエスを救い主とは認めないファリサイ派の人々が、その人が主イエスを神からのお方と認めていることによって、彼を追い出して、会堂の仲間から追放したのです。

しかしそのことは、ファリサイ派の人々が、群れを養っていない姿ですし、また、ひとりの人が主イエスの声を聞き取って弟子となっていったことは、ファリサイ派の人々が、もともと群れの牧者となっていない、そのことを主イエスは、たとえで話された。ファリサイ派の人々は、「何のことか分からなかった」けれども、ヨハネの教会の者たちは、よくわかったはずです。

エゼキエル書で語られた主の御言葉、「見よ、わたしは自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」「わたしがわたしの群れを養い、憩(いこ)わせる」という御言葉は、主イエスの御言葉でもあるということです。主イエス・キリストに養われ、世話をしてもらった人はまた、主イエスの手足となって、主イエスと共に世話をし、養っていく光栄なつとめを与えられていくのです。それは牧師を含む長老たちだけの話ではありません。それぞれが互いをいたわり、祈りに覚えていくのがキリストの群れ、キリストの体である教会の姿ではないでしょうか。

羊は、羊飼いの声を知っていることは、私どもが主イエスの声を知っていることです。主の御言葉を聞くときに、神の言葉として恵まれ、自分たちを養い憩わせる御言葉として、共に礼拝で聞くことができるのは、私どもが主イエスの声を知っていることです。羊飼いがそれぞれの羊の名前を呼んでくださるように、主イエスが私どもひとりひとりのすべてをご存知で、名前を呼んで導いてくださることを信じていきましょう、主イエスが呼んでくださる声を、しっかりと聞き取って、共に、主イエスについていきましょう。


 
 
 

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