2026年4月19日(日)
- shirasagichurch
- 1 日前
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【復活節 第3主日】
礼拝説教 「解き放ってくださる」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 9:1-17
<讃美歌>
(21)26,10,51,446,65-1,29
主イエスが、ある人を見かけられました。その人は、生まれつき目が見えませんでした。弟子たちも同じ人を見ましたが、その人を見る思いは、主イエスとは大きく違っていました。私どもはどうでしょうか。弟子たちは、主イエスにたずねました。「ラビ(先生という意味です)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」(2)
弟子たちは、正直に質問しました。しかしその質問のなかに込められている当時の人々の思いが明らかになっています。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」という質問から分かるように、目が見えない、といった身体の不自由さは、罪を犯したからそうなっているという考え方です。罪を犯した罰として、不自由さをその身に負っているということですが、私どもは、そのような考え方から解き放たれているでしょうか。
主イエスは、弟子たちの質問にあらわれている闇を照らし出していかれました。「わたしは世にいる間、世の光である。」(5)と言われた主イエスは、弟子たちを、そして世を照らして語りかけられたのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3)目の見えない人の傍らで主イエスは弟子たちに語られましたが、本人に向かっても話されていたでしょうし、彼も聞いていたでしょう。今まで誰も語ってくれなかった御言葉を聞いたのです。おそらく、彼もまたその心の闇を照らされたはずです。彼自身も、自分が「生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」という深い悩みを抱えていたのではないか。
これは想像ですが、この人は自分の前におられる「イエスという方」(11)について行きたいと思ったのではないか。彼は自分の目が見えるようにしてもらえるとは想像もしていなかったと思いますが、「神の業がこの人に現れるためである」という御言葉を聞いて、救われる思いがしたのではないか。
神の業という言葉は、神の働きという意味ですが、彼は、主イエスから目に泥を塗ってもらい、シロアムの池で洗ってくるようにと言われました。シロアムは「遣(つか)わされた者」という意味がありますが、まさに救い主として天から遣わされた主イエスの御言葉に従って、「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来ました。」(7)このときにはまだ、イエスという方がだれか知りませんでしたが、やがて彼は、「主よ、信じます」(38)と言って、弟子として従っていったのです。
「神の業がこの人に現れるためである」という御言葉を思い巡らす中で、旧約聖書のなかにしばしば記されている、「シャローム」という言葉を思い起こしました。「シャローム」は「平和」とか「平安」と訳されますが、元になっているのは「シャーラム」という、満たすという意味の言葉です。ですから「シャローム」は「満たすこと」と訳すことができます。主なる神が働いて満たしてくださることが「シャローム」です。「神の業がこの人に現れるためである」という御言葉は、神のシャロームがこの人に現れるためである、と言い換えることがゆるされると思います。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」という御言葉を、ヨハネによる福音書を受けとった当時の教会も愛して、慰められ、救われた、そして自分たちへの御言葉として、受け継いだのです。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」という御言葉で、思い起こすことがあります。この御言葉を愛している方たちのことを思い起こします。
私事ですが、自分がまだ牧師として駆け出しのころです。鳥取の教会の牧師をしていましたが、鳥取県と岡山県で一つの教区、東中国教区になっていて、ある集会が岡山県の教会でもたれました。そこに集まっている方たちは、教区の教会のキリスト者の仲間で、身体に不自由さをもっている方たちでした。足が不自由で、いつも杖をついている方、目の見えない方、重い病の後遺症を負っている方たちですが、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」という御言葉を愛しておられて、今思い出しても、喜びに輝いておられた方たちです。
聖書に記されている人は、実際に目が見えるようになって喜び、主イエスを信じて「主よ、信じます」と告白したのですが、岡山県の集会に来ていた人々は、不自由さを抱えたままです。しかし、「神の業がこの人に現れるためである」という御言葉を愛して、自分たちの上に、神の業が現わされたことを喜んでおられた。その「神の業」は、不自由さが取り去られることではなく、自分の不自由さ、弱さの中に、主なる神が働いて満たしてくださることです。今思い出しても、喜びに輝いておられた方たちは、「神の業がこの人に現れるためである」という御言葉が、自分たちの内に出来事となって喜んでいたのです。
先ほど、「神の業がこの人に現れるためである」という御言葉を聞くと、「シャローム」という言葉と結びつくと言いました。シャロームは、主が私どもの欠け、弱さ、不自由さのうちに働いて、満たしてくださることです。主なる神は、私どもの欠け、弱さ、不自由さ、病気、思いがけない出来事のうちに働いて、満たしてくださいます。「主よ、信じます」と告白した、目が見えるようになった人も、自らの欠け、弱さ、不自由さ、病気、思いがけない出来事の中に働いてくださる主の働きを経験していったはずです。私どもも、主が満たしてくださることを信じていきましょう。





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