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2026年4月26日(日)

【復活節 第4主日


礼拝説教 「信じてひざまずく」


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 9:18-41


<讃美歌>

(21)26,4,156,476,65-1,29

 

ひとりの目の見えなかった人が、主イエスの弟子となっていったことが記されています。9章の始めから続いている話ですが、生まれつき目が見えなかった人を見られた主イエスが、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである。」(3)と言われて、彼の目を見えるようになさいました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである」という主イエスの御言葉を、生まれつき目が見えなかった人は、生涯を通して愛していったはずですし、それは主イエスを生涯、愛していったということです。

私事ですが、牧師になるとときに、按手礼と言って、祝福を受けて遣わされていきます。牧師の正教師試験に合格して按手を受けますが、1996年の12月3日でしたから、この12月で30年になります。その按手のときに、東中国教区の岡山教会に教区の方々が大勢集まってくださった。そして、お祝いの言葉を言ってくださった方は、光明園家族教会の津島牧師でした。期待を込めてでしょうが、「この教区から出ないように」と言ってくださった。津島先生も「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである」という主イエスの御言葉を愛しておられましたが、ハンセン病の元患者で、後遺症と戦っておられました。目がほとんど見えなくて、手足の指の不自由さがありました。ご自身の弱さや欠けと共に働いてくださる主をあがめて生きておられた、真実な礼拝者の姿を思い起こします。この箇所で、「主よ、信じます」とひざまずくひとりの人、弟子の姿と重なるのです。私どもも、「主よ、信じます」とひざまずくひとりとさせていだだく恵みに生きることができるのです。

主イエスによって、ひとりの人がいやされた日が、安息日という礼拝の日でした。ユダヤ人たちは病気をいやすことも、安息日の「いかなる仕事もしてはならない」という律法をやぶることになると言って、イエスを批判し、目を開けてもらった人を問いただしていくのです。病気をいやすことも、仕事だと決めつけていた、間違った掟に生きていたわけです。もちろん、病気をいやしてもらうことは、安息日であっても主に願っていいことですし、むしろ、礼拝の恵みのひとつと主イエスは思っておられたはずです。主イエスは救い主(メシア)として、神の業をしておられたのです。

しかし指導者たちは、「イエスをメシア(救い主の意味)であると公(おおやけ)に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(22)、そして目を開けてもらった人にも「あの者が罪ある人間だと知っているのだ」(24)と言っています。目を開けてもらった人は、指導者に「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(33)と反論しています。そのような反論は、指導者たちを恐れて、当時、ほとんどなかったのではないか。指導者たちは「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、「彼を外に追いだした」(34)のです。物乞い(ものごい、8)であった彼が、元々、社会の一員として生きていたかは疑問ですが、外に追い出したのは、村八分にして町の共同体から追放したということです。

しかし主イエスは彼に出会われました。追い出された、かつて目の見えなかった人を、主イエスが見いだしていかれたのです。主イエスとのやりとりが丁寧に記されています。おそらく彼が、弟子となったあと、何度も何度も仲間に語り聞かせたことが、ここに記されているのではないか。

「あなたは人の子を信じるか」と、主イエスは御自身を指して問われます。「人の子」とは人間のことですが、同時に当時、救い主を指す言葉としても用いられていました。問われた彼は、「主よ、その方はどんな人ですか。その人を信じたいのですが。」(36)と言うのですが、主イエスは「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(37)と語りかけられました。どうして目を開けてもらったイエスが目の前にいるのに分からなかったのだろかと、不思議なやり取りと感じられるかもしれません。しかし、「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と、主なる神から出会ってくださらなければ、人は出会うことができない、元々自分の力では神を見いだすことができないということではないでしょうか。彼は「主よ、信じます」と言って、ひざまずくのですが(38)、このやりとりは、初代教会の洗礼のときのやり取りだと言われます。

この個所から、「あなたはイエスを救い主と信じるか」という問いに対して「主よ、信じます」とひざまずいて、洗礼を授けられるのです。「ひざまずく」という言葉は、礼拝するという意味でもあります。

私どもも、礼拝の度毎に、ひざまずく思いで、「主よ、信じます」と告白していきたい。私どもは絶えず欠けを持ち、罪深い者ですが、神へと向き直る悔い改めの中で、主が罪を赦して恵みのうちに導き、欠けを満たそうと働いてくださることを信じていきましょう。

「主よ、信じます」と、ひざまずいた人のことを聞くと、みなさんの中にも、洗礼のときに、信仰を告白して、ひざまずいて洗礼を授けてもらったことを思い起こす方があるのではないか。そのときの主の恵みに感謝してひざまずいた思いが、生涯深められていくように祈っていきましょう。

この個所でひとりの人がひざまずいたとき、「わたしがこの世に来たのは裁くためである」(39)と言われました。ひざまずく彼を追い出したファリサイ派の人々が「我々も見えないということか」(40)と聞いたとき、主イエスは語りかけられました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(41)

主イエスの裁きは、退けるためではなくて招くためです。ファリサイ派の指導者たちは、神のことが分かり、神が見えていると思っていたでしょう。しかし実際はそうではなかった。彼らもまた、見えるようにしてください、信じたいのです、と告白するように招かれているのです。「あなたは人の子を信じるか」という主イエスの招きは、ファリサイ派の者たちへの招きでもあるのです。

 主イエスの裁きは、退けるためではなくて招くためです。「わたしがこの世に来たのは裁くためである」と言われる主イエスの御言葉によって、見えていなかったことがあることを教えられるのは幸いではないでしょうか。「ひざまずく」という言葉が、「礼拝する」という意味があると言いました。

 私どもは元々、主なる神の前に出てひざまずくにはふさわしくない者であります。そのことを神の聖霊の働きによって教えられていくときに、「あなたは人の子を信じるか」という主イエスの招きの尊さを知るのです。「あなたは人の子を信じるか」という主イエスの招きを感謝して受け取り、「主よ、信じます」とひざまずいて告白する恵みに生きていきましょう。



 
 
 

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