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2026年4月12日(日)

【復活節 第2主日


礼拝説教 「主のまなざしの中で生きる」


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 8:48-59


<讃美歌>

(21)26,14,132,469,65-1,29

 

 先週の家庭集会で学びましたが、パウロは「誇る者は主を誇れ」(Ⅱコリント10:17)と語りました。「誇る」という言葉は、「喜ぶ」という意味でもあります。ともすれば人と比較して生きてしまう私どもです。しかし主を喜び、主を誇りとすることが、私どもを人と比較して生きることから自由にするのです。礼拝を献げて、主イエスを救い主として誇りとして生きるところに、主を喜ぶ祝福を生きることができるのです。

「誇る者は主を誇れ」という言葉は、エレミヤ書から引用されていると言われます。(9:23)エレミヤが預言者として活躍していた時代は、イスラエルが南北に別れており、しかも、北イスラエル王国は、すでにアッシリアによって滅ぼされていた頃です。さらに、南ユダ王国にいたエレミヤたちも、アッシリアの後におこった巨大なバビロン帝国の脅威にさらされていました。そのようなとき人々は、力に対抗して力に頼り、バビロンとは反対側に位置するエジプトに助けを求めたいと考えました。

 しかしエレミヤは、力や軍備にではなくて「わたしこそ主」と言われる主なる神に頼って祈るように、神の言葉を伝えました。しかしエレミヤの言葉は受け入れられず、力に頼った南ユダ王国は、力に倒されて滅び、バビロン捕囚がはじまりました。真実の神の言葉を伝えたエレミヤは、反対者によって殺されてしまったと伝えられます。しかしエレミヤの生涯は、主イエスを指し示しているのです。

 主イエスは、私どものために命を献げてくださった。罪ゆえに神にさばかれて滅びるべき私どもの罪を担って死んでくださったのです。そして死からよみがえられて私どもに罪の赦しを与えて、救い主として生きて働いておられるのです。

 主イエスは、与えられていますヨハネによる福音書8章で、「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」(50)と言われました。「わたしは、自分の栄光は求めていない」と言われた主イエスは、父なる神を誇りとして喜び、父なる神の栄光を求めて生きておられました。そして「裁きをなさる方が、ほかにおられる」と語りかけられたとき、神の御前に裁かれることを覚悟しておられました。その裁きは、私どもが受けるべき神の裁きであり、そのとき周りにいた敵対するユダヤ人たちのためでもあったのです。十字架の上に、神の愛が表され、それは、敵をも愛して救いに導こうとする神の愛であるのです。

 主イエスの周りにいた者たちは、「石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」(59)とあります。それは、石を投げつけて殺そうとしたということです。主イエスが言われたことが引き金になっています。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(58)この言葉が意味することは、主イエスが主なる神であるということです。とくに、「わたしはある」という言葉は、主イエス御自身が神である意味で語られましたし、石を持ったユダヤ人たちも聞きとったはずです。

 主イエスがどのようなときに言われたかというと、仮庵祭という、旧約聖書の出エジプトによる荒れ野の旅を記念する祭りのあとでのことです。出エジプトの指導者となったモーセが、主なる神に導かれたときに、主はモーセに御自分のことを「わたしはある」という者だと語りかけられました。その同じ言葉を主イエスは、御自分を指して語られたのですから、イエスを信じていないユダヤ人たちには到底受け入れられず、神を冒涜することで、死に値すると思ったのです。

 しかし主イエスは、敵対して最後には石を投げつけようとさえする者たちに、神の真理を愛をもって語りかけられました。そこに主イエスの愛のまなざしがあります。51節で「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」「決して死ぬことがない」という言葉は、「決して死を見ることがない」という意味です。聞いていた者たちが、「決して死を味わうことがない」(52)と言い換えていますが、死に支配されて終わることがないということです。人は必ず死を迎えますが、その死に支配されて滅びるのではなく、主なる神を見上げて、その救い支配されて生きる者となる、主イエスの復活の命に共に生きる者となるということです。

 先日は、この地上の旅路を終えて天に召された教会員の納骨を墓地にて行いました。その日はとても風の強い日で、しっかりプログラムが書かれた式次第を持っていないと紙が吹き飛ばされそうでした。そのときにお話ししたのですが、聖書では、風はプネウマと言って、息とか、聖霊の意味もあります。主なる神が私どもに、目には見えないが聖霊として共に生きて働きかけ、御言葉を生きることができるようにしてくださいます。それは主イエスが「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われたように、主イエスの言葉を守ることができる恵みに生かしてくださることです。恵みは、私どもに受け取る理由がないのに与えてくださる賜物、プレゼントです。

 「わたしの言葉を守るなら」と主イエスは言われましたが、ヨハネによる福音書は、13章で主イエスの言葉、新しい掟を記しています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(34)「わたしがあなたがたを愛したように」とは、とても深い御言葉ではないでしょうか。主イエスの愛を生きることは、人には到底できないと思われるかもしれませんが、主イエスが、御言葉の命の息を吹き込むようにして、私どもを御言葉の恵みに生かしてくださるのです。私どもが互いに愛し合う愛の源は、主イエスにあるということです。

 私どもが互いに愛に生きようとするときに、互いをどう見るかが大切ですが、主イエスのまなざしを思い起こす必要があります。私どもが主イエスから受けたまなざしは、私どもに命をかけて愛してくださる神の愛のまなざしです。私どもが互いを見るまなざしは、そのまなざしの源が、主イエスのまなざしにあるのです。礼拝ごとに、主イエスのまなざしを受けとり、その愛のまなざしに生かされて互いを、また自分を見て、主の御言葉を守っていきましょう。


 
 
 

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