2026年5月10日(日)
- shirasagichurch
- 5月10日
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【復活節 第6主日】
礼拝説教 「主イエスは良い羊飼い」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 10:7-21
<讃美歌>
(21)26,6,120,459,65-1,29
先週休暇をいただいて家族で出かけ、久しぶりに動物園に行きました。そのときに、ヤギや羊の囲いがあって、そこにいた二匹の羊をじっくり観察すると、顔がまるで違っていました、一匹は顔の色が真っ白で、もう一匹は真っ黒でした。これなら私にも見分けがつくと思いましたが、それが何十匹にもなると、無理だと思います。なぜこんな話をするかと言いますと、主イエスが「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(14)と言われたからです。
主イエスは私ども一人一人を知っていてくださる、しかもすべてをご存知であります。たくさんの羊を私が見分けることは難しいとしても、牧師として、90名近くいる教会員の方を、見間違えることはあり得ないことです。しかし主イエスは、見間違えないことは当然ですが、一人一人のすべてをご存知であります。しかも、こう言われます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11)この聖句は、CSの5月の暗唱聖句ですが、みなさんも暗唱して心に刻むことをお勧めします。単に暗記するだけではなくて、この聖句が私どもの信仰生活の一部分になる、私どもの体の一部になる恵みが与えられているのです。それほどの御言葉です。文字通り、主イエスは、私どものために命をさげて、良い羊飼いとなってくださいました。
白鷺教会に東京神学大学の神学生が2名も与えられているのは、とても感謝なことです。神学生はギリシャ語やヘブライ語を学びますが、「わたしは良い羊飼いである」という御言葉を、聖書の原語のギリシャ語で読みますと、「わたしは・・・である」という意味の「エゴー エイミ」という言葉が書かれています。明らかに強調している言葉なので、「わたしが良い羊飼いである」と「わたしが」と訳していいのです。あるいは、「良い羊飼い」をある神学者は「本物の羊飼い」と訳しています。「まことの羊飼い」と言ってもいいのです。背景にはエレミヤ書の言葉があります。
エレミヤ書3章14節で、「背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。」と語りかけられて、15節でこう預言されています。「わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。」「心にかなう」とは、主の心、みこころにかなうという意味です。主イエス・キリストこそは、主の心にかなう牧者の中の牧者、まことの羊飼いであるのです。主イエスについていくときに、道を踏み外すことなく、守られていくのです。
そのことは、主イエスが御自身のことを、「羊の門である」(7)と言われたことにも示されています。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。」ここにも、「わたしは・・・である」という意味の「エゴーエイミ」がありますので「わたしが羊の門である」と訳していいのです。「はっきり言っておく」とは原語で「アーメンアーメン」という「まことに」という言葉が重なっていますから、「まことにまことに」と直訳できます。命をかけて語りかけられておられるのです。
羊の門として、その囲いの中に私どもを招いて入らせ、その中で守ってくださるのです。羊である私どもを滅ぼすもの、罪の力から私どもを救って救いの囲いの中に入れてくださったので、もはやだれも私どもを、まことの羊飼いである主イエスのもとから連れ出すことはできないのです。
主イエスは18節でこう言われました。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」とは、主イエスの十字架の死と復活のことを語っておられます。「これは、わたしが父から受けた掟である」とは、エレミヤ書に預言されていた「心にかなう牧者」としての歩みに生きるということです。主の御心は、私どもを罪のゆえに裁いて退けることではなくて、主自らがその裁きを身に負っていかれることなのです。しかしその裁きによる死は、主イエスを滅ぼすことはできず、死から復活されて、救い主として、まことの羊飼いとして生きておられるのです。その意味では、羊の門とは、十字架の死と復活による救いの門であります。
16節で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。」と言われました。それは、旧約の民ではない、ユダヤ人ではない人々、私どものことでしょう。
主イエスは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10)と言われました。先ほど、動物園で羊を観察してきたと言いました。羊は草をひたすら食べていましたが、あたりを見回して危険がないか用心していたわけではありません。羊のいた囲いの中で、安心して食べていました。以前にもお話ししたことですが、羊は遠くは見えないで、目の前にある草をひたすら食べるようですから、羊には羊飼いがどうしても必要で、草がもっとあるところへと動かしてもらうのです。
2026年度の目標は「一日一日を感謝して生きる」です。この年度目標と、今日の聖句がつながる思いがしました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われて、命をささげて守ってくださる主のもとで、安心して生きることができるのです。遠くを見渡せない私どもが日々に、一日一日を生きている中で、将来を見据えておられる主が私どもを導いてくださることを信頼して、信じていきましょう。
先ほど、「これは、わたしが父から受けた掟である」と主イエスが言われたことは、エレミヤ書に預言されていた「心にかなう牧者」としての歩みに生きるということだと言いました。主の心にかなう道に生きる、その命を羊が受けるため、しかも豊かに受けるため、主は導いてくださいます。主の御心にかなうことは、自分の心にかなうこととは違うことがあります。私どもの心はときに狭く、自己中心に、利己的になるからです。主の御心にかなうように祈りながら一日一日を感謝していていくことは、利己的になることから私どもを自由にします。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と神の愛をもって導いてくださる、まことの牧者である主イエスに信頼して、共に従っていきましょう。





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