2026年4月5日(日)イースター礼拝
- shirasagichurch
- 4 日前
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【復活節 第1主日】
礼拝説教 「復活の主イエスを見ました」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 20:11-18
<讃美歌>
(21)26,321,326,333,79,65-1,29
「マリアは墓の外に立って泣いていた」(11)とあります。まぜ泣いていたのでしょうか。私どもも、自分の思い、悲しみから離れることができないで、その思い、嘆きの中にただ立ち続けるように過ごすことがあるのではないでしょうか。しかし、マリアに近づき、彼女に「マリア」と出会ってくださった主は、私どもにも出会って、名前を呼んでくださるのです。すでに私どもを知っていてくださっているのです。
イースターの朝、主が復活なさったことをまだ知らないマグダラのマリアは、悲しみに暮れて、その場を離れることができないで泣いていました。それは、愛する主イエスが葬られた墓が空っぽになっていて、誰かがそのお身体を持ち出したと思ったからです。
最初に、マグダラのマリアからそのことを聞いたペトロたちも、実際に墓へ行って確かめたのですが、彼らも主の復活をまだ信じることはできなかったのです。ヨハネによる福音書は21章9節で「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とあります。二人の弟子たちは家に帰って行ったのですが、マリアは離れることができなかったのです。
墓の中を見ると、二人の天使がいました。それでもまだ、主が復活されたことに、思いがおよばなかった。主の復活は、人の思いの中ではとらえられないものであるのです。天使たちに「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているか、わたしには分かりません。」(13)と言ったとき、人の気配を感じたのでしょう。マリアが振り返ると、そこに主イエスが立っておられました。しかし、それが主イエスだとはまだ分からなかった、園丁だと思ったようです。
墓の中を見たときには、天使を天使とわかったようですが、主イエスがそこに立っておられたのに、すぐには分からなかったのは不思議な気がするかもしれません。しかしマリアが園丁だと思うほどに、私どもと全く変わりない、人の子の姿がありました。復活されたときに、人となられた御子の姿に復活されたのであって、もはや人ではない神の子に復活されたのではないということです。そのことは、今もなお、主は私どものひとりとなってくださった救い主として、私どものすべてを知ってくださっているということです。
おそらくマリアは、園丁だと思っていたので、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」(15)と言って、またその園丁に背を向けるようにして墓をじっと見ていたのかもしれません。そのときに、主イエスは「マリア」(16)と言われました。マリアはすぐに振り向いて「ラボニ」と言ったのです。それは「先生」という意味で、マリアは主の御言葉で主イエスだと分かったのです。
マリアは、もう決して主イエスから離れたくない、と思ったのではないか。主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」(17)とマリアに言われました。どうしてでしょうか。「触れてはいけない」と訳している聖書もありますが、「すがりつく」と訳されている言葉は、「くっつく」とか「つかむ」という意味があります。ですから、復活されたお身体はあまりに聖なるものなので「触れてはいけない」という意味ではなくて、すがりついてつかんでいるその手を放しなさい、とう言われたのです。どうしてでしょうか。
それは、主イエスがその理由を話されています。「わたしにすがりつくのはよしなさい。わたしの兄弟たちところへ行って、こう言いなさい『わたしの父であり、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(17)
天におられる父なる神のところへ行かれる、だから、その手を放しなさい、と言われました。マリアは主イエスと地上でずっと過ごして共に生きることを願ったでしょうし、その思いを主イエスはすべてご存知でした。しかしマリアが、主イエスが天に行かれたあとも、見ないで信じていく道、また主が聖霊として共に生きてくださる幸いを、主は備えていかれました。
マリアは、主から言われたことを弟子たちに伝え、「わたしは主を見ました」と告げたのです。おそらくマリアは、その生涯のなかで、繰り返し、復活された主を見ました、と復活の日の出来事を伝え続けたでしょう。そのためでしょう、二度も振り向いたことまで丁寧にヨハネによる福音書は記しています。
マリアが振り向いたこと、深い悲しみの思い、自分ではそこから離れられない思いから振り向いたのは、神へと向き直ったことです。「マリア」と名前を呼ばれた主は、私ども一人一人の名を呼んで、御自身へと向き直らせてくださるのです。「マリア」と主が呼ばれたその言葉に、自分の名前を当てはめて、主が自分を呼んでくださっていると信じることができます。マリアのように、実際に肉眼で見ることはできないでしょう。しかし御言葉で主だと分かるのです。
主に名前を呼ばれて出会った者たちが、世々にわたって、わたしは復活の主に出会いました、と主イエスを伝えてきたのです。名前を呼んでくださるということは、私どものすべてをご存知であるからです。マリアがそうであったように、私どもが振り返るその前に、主が私どもの方を向いてくださっていることを信じていきましょう。私どもを愛して、私どもに救いを与えてくださる主がおられます。御言葉で語りかけてくださる主に向き直っていきましょう。すべてをご存知である主へと、いつも向き直っていきましょう。





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