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2026年3月29日(日)

【受難節 第6主日


礼拝説教 「神に属する者」


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 8:39-47


<讃美歌>

(21)26,15,295,313,65-1,29

 

 主なる神様は、厳しい裁きの先に救いを用意してくださいました。

 今日与えられています箇所には、主イエス・キリストの厳しい裁きの言葉があります。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」(44)これは、アブラハムの子孫であることに固執して、主イエスを御言葉に聞き従わない者たちに言われました。しかし、ヨハネは自分たちへの御言葉としても記しました。罪のもとに生きて、救いの恵みに生きない者への厳しい御言葉です。罪は欲望を満たしたい思いに人を支配していくのであって、そのように罪のもとに生きいるときに、神の御言葉を聞いて、それに聞き従おうとはしないことを語っておられます。

しかし、その先に何を見据えておられたのかは、とても重要なことです、主は厳しくも愛をもって語りかけておられるのです。裁きの御言葉のうちに、神の愛があり、救いが用意されているのです。その救いの備えは、命がけであって、文字通り、主は命をささげて救いを用意してくださいました。

今日は、受難週の礼拝でもあります。ヨハネによる福音書は、主が十字架に命をささげられ、死に渡されましたが、主イエスの死はそこで終わりではなく、死からよみがえられたこと、復活されたことを伝えています。主が私どもに代わって、神の裁きをその身に受ける覚悟を持って語りかけておられることに思いを深めましょう。

 「あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(47)と言われましたが、そこには、神に属する者となるよう、強い招きがあるのです。神に属する者とは、神から出た者という意味があります。神から出たとは、神から生まれた者であって、洗礼を受けて新しくされた者、新しく神の命とつながるものとされたということです。しかし、神から出た者が、ふさわしく生きているかどうかは、たえず問われていくべきものです。

 いま祈祷会では、イザヤ書を学んでいます。1章から11章までは、おおむね厳しい神の裁きの御言葉の連続です。またそこには、神の嘆きがあります。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを堀り よいぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」(イザヤ5:2)

主なる神のぶどう畑に「植えられたのはユダの人々」(7)です。酸っぱいぶどうは、食べられないということですし、主なる神の御心にかなっていないということです。彼らは人の力に頼り、軍隊による戦争によって平和を得ようと大国に贈り物をして、すりよったのですが、むしろ大国による軍隊によって国が滅ぼされていった。そして、礼拝の心も失われ、偶像礼拝によって、まことの神を悲しませ、怒りにふれたのです。主は「レバノンの大木を切り倒される」(10:34)と言われました。レバノンの大木は、当時とても貴重な大木でしたが、それは人間の高慢の象徴として示され、「切り倒される」とあります。

 しかしその直後に、救い主の預言が記されます。「エッサイの株から芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。」(11:1-2)エッサイはダビデ王の父親ですが、原点に立ち返ることを言われています。エッサイの株は切り株ですから、そこから、ひこばえと呼ばれる新しい芽が出る希望が語られています。さらに、12章には、「その日には、あなたは言うであろう。」(1)という神の約束の言葉が記されています。「その日」は、やがての救い主の到来の日と受け取っていい言葉です。すでに救い主である主イエス・キリストが来てくださったので、私どもは、その日の恵みに生きているのです。ですから「あなたは言うであろう」とは、私ども一人一人への語りかけとして受け取ることができます。どのように、神に応答すると約束してくださったのでしょうか。

「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが その怒りを翻(ひるがえ)し、わたしを慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。」(1-2)

「主よ、わたしはあなたに感謝します」とある、「感謝します」という言葉は、原語で「ヤーダー」で、「告白する」という意味があります。その告白の中身は、賛美、ざんげ、感謝であるので、「感謝します」「さんげします」「賛美します」という、神への告白です。「あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが その怒りを翻(ひるがえ)し、わたしを慰められたからです」とある、「その怒りを翻(ひるがえ)し」というのは、怒りを去らせ、という意味です。主イエス・キリストが十字架の犠牲によって神の怒りをその身に受けて、私どもから去らせてくださいました。そのような、罪の赦しにたえず立ち返り続けて、神へと向き直る悔い改めに生きていくのです。

「あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが その怒りを去らせ、わたしを慰められたからです」と告白できるのは、神の裁きの御言葉を聞いたからです。

 主イエスは、「神に属する者は神の言葉を聞く」(47)と言われました。神の言葉を聞くときは、自分にとって望ましい言葉だけを聞くのではないことは、お分かりになるでしょう。むしろ、耳の痛い言葉、神の裁きの御言葉に、深い神の愛を聞き取っていきましょう。そのときに、「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった」と感謝と賛美の告白をすることができるのです。たえず、主が恵みへと引き戻すために「神に属する者は神の言葉を聞く」と言われました。神の言葉は、裁きと愛の言葉、愛をもって語る裁きと救いの言葉です。「神の言葉を聞く」ことから、私どものふさわしい歩みが生み出されていくことを信じていきましょう。


 
 
 

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