2026年3月15日(日)
- shirasagichurch
- 2 時間前
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【受難節 第4主日】
礼拝説教 「これに聞け」
竹澤 潤平 牧師 (明治学院高等学校聖書科主任)
<聖書>
マルコによる福音書 9:2-9
<讃美歌>
(21)26,3,285,204,65-1,29
今日の聖書箇所は日本基督教団の聖書日課から選んでいます。この箇所は聖書の中でもなかなか不思議な場面かと思います。節を追って順に読んでいきたいと思います。
2節ですがその前に、今日の聖書箇所の前には受難予告がありました。イエス様は、殺されてから三日の後に復活するのだ、ということを弟子たちに伝えていました。その日から「六日の後」ですから、受難予告から始まって七日目、ということになるそうです。創世記がいうところの天地創造は、始まってから六日目に完成され、七日目に神様が休まれたということを伝えています。そこから考えれば、イエス様の受難予告が始まってから、「六日の後」の日である今日の聖書箇所の時に完成した、ということができるのだそうです。
また、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行かれた、とありました。この三人はヤイロの娘の復活や、ゲッセマネの園など、十字架の死と復活に関連する重要な場面に連れて行かれます。この三という数字、これも完全さを表すだとか色々と言われますが、特にマルコによる福音書では、十字架と復活の神秘に直結する出来事に際して出て来る数だと言う事ができます。つまりイエス様の十字架の歩みは、今日の聖書箇所に示されるように、主の御栄光で満ちて完成されるということを示しているのです。
その舞台となる場所は具体的な固有名詞はない「高い山」でしたが、聖書において山の上というのは、しばしば神様がご自身を現される場所でした。この後出て来てイエス様と語りあうモーセは、神様から呼ばれて山の上に行き、七日目に神様が現れました。この高い山とは、天に近い場所を象徴しているのです。その天に近い高い山で、イエス様の姿が彼らの目の前で変ったのでした。
3節ですが、これがマタイによる福音書ですと、<顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった>とあります。出エジプト記には十戒を授かったモーセの顔が光輝いて、人々は恐れて近づけなかったことが記されていますが、それが念頭に置かれているのでしょう。イエス様の姿が突然真っ白になって光輝いた。イエス様の神々しさを存分に示しています。とても不思議な、神秘的な場面です。
更に4節ですが、旧約時代の偉大な預言者であるエリヤとモーセが共に現れたということは、旧約聖書の歴史・預言の成就として、この出来事が起こったと言うことを表現していると言われます。律法のモーセ、預言者の代表格のようなエリヤ、この二人を通して、イエス様は律法と預言を完成させる方なのだと示されているのです。旧約聖書を通して、イスラエルの民の歴史を通して神様が成し遂げようとされている救いのご計画が、イエス様によって完成させられるのだと。
しかし、この神様の意図はなかなかわかるものではないでしょう。それこそ、イエス様の十字架の出来事をまだ知らないペトロたちにとってはなおさらです。5節においてペトロはわけがわからないことを言っているようですが、こうも言われるようです。ペトロは御栄光に輝く素晴らしいお姿の主イエスを、そのままにここにとどめておきたいと考えたのだ、と。確かにそのような思いが人間にはあるのではないかと思います。理想的な姿、言ってしまえば神秘的なかっこいい姿、この光り輝くイエス様を見れば、誰だって跪かずにはいられないだろう、・・・と思ったかどうかわかりませんが、そのお姿をとどめておきたい、と考えても不思議ではないかもしれません。
一方で6節後半には、弟子たちが非常に恐れたと言及されています。神秘的な不思議な光景を目の当たりにしていますが、同時に恐ろしいと感じるものでもあるでしょう。それはただ怖い、というよりも、地上にいるはずのないモーセとエリヤをここに出現させ、イエス様を白く輝かせる、このようなことを成せる神の業を畏れている、その偉大さを感じている、というものでしょう。それくらい神々しい力を持ったイエス様のお姿をとどめておきたい。そのお姿でずっといて欲しい。そのような想いが、人間にはあるのだと思います。
よく考えての発言とは思えないペトロさんでありますから、5節の言葉は無意識に口から出たのかもしれませんが、ここの意味するところはイエス様の十字架を回避しようとすることです。ペトロたちにとっては、8章でイエス様が自ら言及された、殺されるなんてことは救い主にふさわしくない事柄であり、敗北に他ならなかったでしょう。対して、今日の聖書箇所ではイエス様は神々しいお姿です。それはペトロたちの理想の救い主像に合致したことでしょう。イエス様のお姿に神々しさ、力強さなどを感じていてもおかしくありません。この時の弟子たちにとって、敵に捕まり、十字架の上で惨めにも殺されるイエス・キリストのお姿など考えられなかったのではないでしょうか。
そのような勘違いをしていたであろう弟子たちは7節前半で目が曇らされ、イエス様たちのお姿は見失いました。救い主を自身の理想像に落とし込もうとする弟子たちの目には、主イエスは隠されてしまうのです。多分に教訓的だと思います。わたしたちも、自分勝手なイエス様を創り上げようとするなら、また都合の良い主イエス像を創り上げる時、この目は見えなくなってしまうのです。
続いて7節後半ですが、同じマルコによる福音書の8章などには、イエス様のお話を聞かない、聞いていない、聞けていない、ペトロたちの姿がありました。それ以前には、この9章に至るまでにも、<聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない>とまで言われている人々もいました。イエス様ははっきりと、ご自分の死に至る苦難の道をお話ししていたのです。またそれは、わたしたちで言う旧約聖書に基く、救い主の歩みであります。そのイエス様の語る言葉を、聞いていない現実があったのです。自分の考えに囚われた神の救いばかり見ているのならば、本当にはイエス様の言葉に聞いていることにはなりません。そうではなくて、まことにイエス様のお言葉に聞いているのか、改めて御言葉が与えられているのです。これに聞け、と。
8節にはもう神々しいイエス様はおられません。わたしたち普通の人間と同じ、肉体、貧しさなどを備えた姿がそこにあったことでしょう。しかし今日の聖書箇所のペトロたちとは違うようなこと言うようですが、彼らは8章でそのイエス様をキリストだと信じ、告白したのです。あなたはメシアですと。
9節ではこの不思議な出来事を話してはいけないと言われていました。なぜ話してはいけないかというと、まだイエス様の十字架の死と復活を見ていない弟子たちが、分からないままこの出来事を語ったとしても、それはイエス様の本当の意味のご栄光を現すものとはならないからです。イエス様はこの地上にいないはずのモーセやエリヤと親しく話せるほど偉大な人物なのだ、どれだけイエス様が神々しい方か、だとかになってしまうかもしれません。それではただのオカルトです。胡散臭い新興宗教です。奇跡的だ、すごい、摩訶不思議だ、などがわたしたちの信仰ではないのです。
なにより、今日の聖書箇所の出来事はイエス様の十字架の死と復活があるからこその出来事です。ペトロたちがここで見たであろう、神々しい姿がイエス様の示された御栄光の姿ではありません。イエス様が御自分の命をもってこの世に示された御栄光の姿は、十字架にかけられたお姿です。十字架につけられたみじめな姿、それこそがわたしたちの主、イエス・キリストです。表面上、肉の目で見ると敗北者でしかないかもしれません。しかし、信仰をもってその姿を見ると全く違います。復活の主イエスを知って、信じて見てみるならばそれは、十字架にかけられ、苦しめられ、血を流し、無残に死んでいったイエス様こそが、全く白い、潔白な方、罪のないお方であったとなるのです。復活の主に出会ってこそ、主イエスの復活信仰を与えられてこそ、イエス様のまことの御栄光のお姿が見えるようになるわけです。
復活の主に出会い信仰与えられ、真の御栄光の姿を見た私たちは、むしろ今こそ、そのお姿を宣べ伝えなさい、と語りかけられているのではないでしょうか。これに聞け。そう命じられた私たちは、イエス様に聞くがゆえにこの礼拝に集い、み言葉に聞き、この新しい一週間を歩んで行きます。秘密を、神秘を与えられたイエス様の弟子として、それぞれの場所で見て聞いたことを語るのです。オカルト的なことを面白おかしく話すのではなく、また自身の考えに囚われて好き勝手言うのではなく、わたしたちが信仰の目を通して見た十字架の死と復活の主イエス・キリストをこそ、宣べ伝え続けたいと願います。





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