2026年3月8日(日)
- shirasagichurch
- 8 時間前
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【受難節 第3主日】
礼拝説教 「共にいてくださる」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 8:21-30
<讃美歌>
(21)26,9,294,532,65-1,29
今日の箇所を思い巡らしながら、幼いころに、初めて映画館に連れて行ってもらったことを思い起こしました。なぜかと言いますと、「わたしはある」という者だと主イエスが言われた言葉は、モーセという指導者が主なる神から受けた言葉と同じだからです。そのモーセが登場する「十戒」という映画が上映されたときに見に行きました。記憶があいまいですが、小学校の1年生か幼稚園生のときだったと思います。おそらく生まれて初めて映画館に行ったのですが、両親が聖書の記述が映画になっているのでどうしても見せたかったようで、紅海が二つに分かれて旧約の民が向こうへと渡っていく場面などが強く印象に残っています。
その「十戒」の映画で、モーセが民を導く指導者として召されたことが登場するかは覚えていないのですが、おそらくとても大事な場面ですので、取り上げているのではと思います。モーセはエジプトで奴隷の苦役を負う同胞を導く指導者として、神から遣わされるのですが、「わたしは何者なのでしょう」(出3:11)と答えます。どうして自分のような者がその役目にふさわしいでしょうか、と受け入れなかったのです。そのときに、主なる神は、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出3:12)と約束され、さらに、こう言われました。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出3:14)口語訳では「わたしは、有って有る者」で、こちらの方が原文に近いと思います。ヘブライ語の原文の意味合いを込めますと「有ろうとする者として有る者」と訳すことができる言葉です。ただ、存在してあるということではなく、「わたしは必ずあなたと共にいる」という約束を実現して、共に「有ろうとする者として有る者」ということです。
主イエスもまた、父なる神から遣わされた救い主として、今日の箇所で人々に語りかけています。29節で「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる」と言っておられます。しかし、「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる」と言われたことは、主イエスで最後ではない、むしろ、主イエスは御自身を信じる者たちと共にいてくださるお方として、語りかけておられます。ヨハネによる福音書を受けとった当時の教会も、「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる」と、主イエスを信じて告白したのです。主イエスが共にいてくださることを信じて、従っていきました。30節で「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」とありますが、ヨハネの教会の者たち、近隣の当時の初代教会の者たちも、これは自分たちのことでもあると、感謝して受け取ったはずです。
このとき信じた人々は、主イエスから何度も同じ言葉を語り聞かされています。21節から30節を朗読してお分かりになったと思いますが、「あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる」という言葉で、21節に一回と24節に二回、ですから三回も繰り返しておられます。三回繰り返されたことは、とても大事なこととして強く語られたのです。
罪の内に死ぬ、とはどういうことでしょうか。人は誰しも死を迎えますが、罪の内に死を迎えるとは、どういういうことでしょうか。「罪」と訳されている原語「ハマルティア」は、的をはずしている、ずれているという意味です。どことずれているか、それは主なる神とずれている、神と命のつながりをもっていない、ということです。ですから、罪の内に死ぬ、というのは神とのつながりとずれたまま、死を迎えることです。
主イエスは、主なる神と、命のつながりのないまま死を迎えることがないように、三回も強く語っておらます。それは、わたしはあなたと共にいる、それを信じるなら、神とのつながりのないまま死を迎えることはない、と約束してくださったのです。(24)「わたしはある」という言葉は、「わたしはあなたと共にいる」と同じなのです。
このとき、主イエスは神殿の境内で教えておられます。そこには主イエスを十字架に追いやろうとする指導者たちもいました。彼らに対しても神の愛そのものとして、わたしはあなたと共にいる、それを信じるなら、神とのつながりのないまま死を迎えることはない、と約束してくださったのです。まだ信じることができない人々に主イエスはこう言われました。
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて『わたしはある』ということ、・・・が分かるだろう。」(28)「人の子を上げたとき」とは、十字架に上げたとき、です。それは人々の目からは、神に裁かれた者として上げられたのですが、そのときに「わたしはある」ということが分かると言われました。「わたしはある」とは、主なる神が語ることができる言葉です。十字架につけて殺したときに、このお方は、もっとも殺してはならないお方、主なる神であることを知ることになる、と預言されました。主イエスの十字架の横で百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と告白した言葉が、まさに主イエスの言われた御言葉の実現です。
先ほど、「わたしはある」という言葉は、「わたしはあなたと共にいる」という言葉と同じだと言いました。十字架に、人が受けるべき神の裁きをその身に受けてくださったことによって、私どもに救いの道がひらかれて、主なる神が共にいてくださる、神との命のつながりに生きる道が与えられたのです。もはや罪の内に死ぬのではなく、神の愛の内に、神の命のなかで死を迎える道が備えられているのです。
また先ほど、「わたしはある」という言葉の旧約聖書の原語は、「有ろうとする者として有る者」と訳すことができる言葉だと言いました。もっとも困難な道に、主イエスは生きてくださいました。それは罪人の代表として十字架に上げられたのです。それはだれも耐えられない、ついて行くことができないことです。しかし主イエスはその道を歩みぬいてくださいました。私どもが知っている苦しみ、痛みをすべて主イエスは知っておられます。いや私どもの知りえない痛み、苦悩をも主はご存知であるのです。主イエスは、すべての苦悩、痛み、神からの裁きの道を歩みぬいて、いまもなお、「わたしはある」「わたしはあなたと共にいる」と語りかけてくださることを信じて従っていきましょう。





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