top of page

2026年3月1日(日)

【受難節 第2主日


礼拝説教 「主イエスは世の光」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 8:12-20


<讃美歌>

(21)26,13,303,503,65-1,29

今日与えられています箇所は、「イエスは再び言われた」(12)と始まっています。「再び」とは、話のつながりを言いますと、7章から仮庵祭のときのことが記された、そのあとの出来事です。仮庵は、仮の家、掘っ立て小屋と言った方が通じやすいかもしれませんが、そこで過ごして祭りを行いました。それは、かつて旧約時代に先達たちが、荒れ野で旅をしながら故郷を目指したことを思い起こしたからです。その荒れ野の旅で、主なる神が助けてくださったことを思い起こして、自分たちのこの時代にも、主は共にいてくださることの信仰を新たにしたということです。

荒れ野で何に苦労したかというと、もっとも大きな問題は水がなくて渇いて死にそうになり、しばしば主に助けられたことです。そのしるしに、仮庵祭ではシロアムの池から毎日水を汲んで、神殿にささげました。しかし、その儀式としては盛大なものだったでしょうが、主こそが私どもの魂の渇きをいやしてくださる方だと、彼らが深く心に思い起こしたかどうか、主イエスは見抜いておられたでしょう。

 仮庵祭のとき、主イエスは語りかけられました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(37・38)主イエスは、御自身が人の魂をうるおし、命の水、生きる水を与えてくださる方だと語りかけてくださいます。今もなお、「わたしのところに来て飲みなさい」と招いてくださるのです。旧約聖書の民は、荒れ野の旅をしましたが、私どもも、人生が荒れ野の旅のように、生きることの困難をおぼえることがあるのではないでしょうか。さまざまな困難のなかで、すべてを知っておられる主が、私どもを満たしてくださるのです。

 仮庵祭のあと、盛大な祭りの余韻(よいん)がまだあるなかで、主イエスは再び言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(12)主イエスは、御自身が世の光だと言われました。世の光とは、すべてを照らす光です。それは主なる神にしかできないことです。御自身に従う者だけではなく、まだ信じていない者も、あるいはこの祭りのときに、敵対する者もいましたが、敵をも愛する愛で、すべてを照らす光として語りかけてくださっているのです。私どもが光を持つときに、自分に必要なところしか照らさないのではないでしょうか。あるいは、見たくないところは、照らすことができないこともあるのではないでしょうか。しかし主は、神の愛として私どもを照らし、闇を光に変えてくださるのです。

 「わたしに従う者は」とあるように、主イエスを信じることと、主に従うことはひとつのこと、切り離せないことです。どのように従うのでしょうか。それは、主イエスを信じて、主の弟子として御言葉に聞き従っていくのです。弟子として、主の光に照らされ続けて生きること、それはときに、自分では隠しているような思いや行いを照らされることもあるでしょう。直前の箇所では、姦通の現場でとらえられた女性が連れて来られています。正義感にかられて、この女をどう裁くか、と詰め寄る者たちに「罪を犯したことの者が、まず、この女に石を投げなさい」(7)と言われました。そして、主は女性に「あなたを罪に定めない」(11)と言われたのです。罪をゆるされる恵みのなかで、私どもは深く罪を知らされ、神の裁きにひれ伏す思いが与えられます。主イエスは女性に「もう罪を犯してはならい」と裁かれ、その御言葉が現実となって、彼女は同じ罪を犯すことから守られたでしょう。私どもも、「あなたを罪に定めない」「もう罪を犯してはならい」と言われる主の恵み中で、罪をゆるされる感謝の思いを深めるのではないでしょうか。

 さて、先ほど、仮庵祭と水は切り離せないことを話しました。しかし、光と仮庵祭はすぐに結びつくでしょうか。ご存じの方もあるかもしれませんが、ユダヤ人は日が暮れて日没になると、次の日が始まるととらえます。そして、仮庵祭では、火をともします。なぜ火をともすかは、日が暮れて暗くなってまだ祭りが続くからではありません。むしろ、荒れ野の旅をかつての先達たちたちがしたときに、昼は雲の柱、夜は火の柱をしるしとして、主が共にいてくださったことを思い起こすためです。彼らは、高い所にあるランプのようなものに火をつけて、遠いところからでも見えるようにして、日没後も祭りが続いたようです。そして、人々がたいまつに火をつけて祭りを盛り上げたそうです。

 ですから、主イエス・キリストが「わたしは世の光である」と言われたときに、日没後で、高い所の光やたいまつを人々が見ていたかもしれません。このたいまつの光やランプの光はやがて消える、しかし、世の光であるわたしは消えない光であって、命の光である、そして、暗闇をたいまつで照らされている人々に、「わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」と語りかけられたのです。

 「命の光を持つ」と言われた言葉に、心をとめた方があるかもしれません。「命の光に照らされていく」ではなく、命の光を持って生きると、約束してくださったからです。私どもが知っている光は、照らされますが、その光が消えると、照らされる私どもも暗くなります。しかし、命の光は、命を持っている光ですから、照らすだけではなく、命を分け与えるようにして照らすのではないでしょうか。

 主イエス・キリストとの命のつながりに生きること、それは主を信じて祈って生きること、その祈りの生活は、礼拝からいつも始まっています。礼拝で、御言葉に照らされることは、主に従って、命の光に生きること、命の光を持つ喜び、確かさに生きることです。「あなたを罪に定めない」と語りかけてくださる御言葉の命の光に照らされて生きることです。

 御言葉の命の光に照らされて生きることは、命の光を持つ恵みに生きることですが、それは主が共に生きてくださる喜びに生きることです。仮庵祭は、荒れ野の旅で、主が共にいてくださったことを記念して、火をともすと言いましたが、その荒れ野の旅の始まりに、モーセが神から遣わされました。指導者として行くことをためらうモーセに主なる神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3:14)と語りかけられました。直訳すると「ありてあるもの」となりますが、意訳しますと、「なろうとするものになるもの」ということです。

 主イエスは、モーセ―に主が語られた同じ御言葉、「わたしはある」(24)というお方であると語りかけておられます。「なろうとするものになる」お方としては、人となられた救い主として立っておられるのです。そして、とこしえに消えない光として、枯れない命の泉として、「わたしはある」と今もなお、共にいてくださるのです。主イエスが私どもの魂をうるおして生かしてくださる、命の泉である主であることを信じていきましょう。そして、消えない世の光、命の光として、私どもを導いてくださることを信じて、主に従っていきましょう。


 
 
 

コメント


© 2023 by COMMUNITY CHURCH. Proudly created with Wix.com

bottom of page