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2026年2月22日(日)

【受難節 第1主日


礼拝説教 「罪をゆるす神」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 7:53-8:11


<讃美歌>

(21)26,16,51,481,65-2,29

 

 主イエスの前に、ひとりの女性が引き出されています。そして、律法学者たちやファリサイ派の人々が詰め寄っているのです。姦淫の現場でとらえられた人が連れて来られ、モーセの律法を引き合いに出して、「あなたはどうお考えになりますか」(5)と問いかけています。「訴える口実を得るために」(6)とあります。

 とても有名な箇所ですが、私どもはどのように受けとめるのでしょうか。

 ある神学者は、パウロがこの個所を知っていたのではないかと想像しています。ご存知の方もあると思いますが、新約聖書は、古い順から並んでいるのではなくて、福音書が四つ最初に来ていますが、福音書よりも前に書かれた、パウロの書簡がいくつもあります。テサロニケの信徒への手紙が、新約聖書で一番最初の書簡だと言われます。そのパウロが、ヨハネによる福音書のこの物語を知っていたとしても不思議ではありません。そして、ある神学者は、パウロがかつての自分に対する、主イエスからの語りかけとして受けとめたに違いない、と言います。確かにそうだと思います。

 パウロは、ファリサイ派の若き指導者として活躍していました。初代教会のキリスト者の信仰が間違っていると確信して、彼らを捕らえて迫害していたのです。しかしパウロは、復活された主イエス・キリストに出会い、自分自身が主に裁かれるべき者だということを知り、主イエスを信じて、主の弟子となっていったのです。

 7節で「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とある、主の御言葉を、パウロは自らへの御言葉として、生涯、忘れることはなかったと思います。御言葉の恵みを幾度も、受けとり直したのです。それは、主の御言葉の恵みを知り続けた、と言うことができます。

 私どもは、どう受けとめるでしょうか。パウロは、実際に姦淫の罪を犯すことはなかったでしょう。しかし、自分は人を裁くことはできない、罪を犯したことがある者として自覚したのです。主イエスの御言葉によって、パウロは人を裁く罪を深く知らされたでしょう。自分を正しいところにおいて人を裁くことは、私どもにも身に覚えがあるのではないでしょうか。しかし、その人を裁く罪は、とても自覚するのが難しい、いや、最も自覚するのが困難な罪が、人を裁く罪ではないか。

 明らかに相手が間違っている、明らかな罪を犯しているその人を前にして、私どもは自分には非がないと自分を正しいところにおいて、人を裁くことがあります。しかし、自分もまた、神の前に立たされたら、非の打ちどころがないとは言えないことを忘れていることがあるのです。もっと言いますと、神を忘れて、人を非難する思いに支配されていることがあるのではないでしょうか。パウロは、そのような罪を犯したことを、そしてこれからも犯してしまうかもしれない、自らの罪深さを自覚していったのではないか。

 正義感にかられて神を忘れることがあるかもしれないのです。主イエスが、正義感に満たされた人々の問いかけに対して、それに答えることをなさらず、「指で地面に何か書きはじめられた」(6)とあります。何をお書きになったかは、いまでも誰もわかりません。しかし信頼できる神学者たちが、共通して思い起こしている聖書の言葉があります。その御言葉を主イエスが書いておられたのではないか、というのです。

 それは、エレミヤ書の17章13節です。「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は 地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。」正義感にかられて、この罪を犯した女性をどうするのか、と詰め寄る人々、手に石をもっていたかもしれない人々は、神を忘れて、離れ去る者としてそこに立っていたというのです。ですから、主イエスは、彼らに顔をそむけておられる。それは、とても厳しいことです。ここに顔を背けておられる主のなる神の姿があるのです。

エレミヤ書には「あなたを離れ去る者は 地下に行く者として記される」とあり、「記される」とは名が記されることですが、主イエスは主なる神であるので、そこにいた人々の名を地面に書かれていたかもしれない、とある神学者は想像します。「地下に行く者」とは滅びる者、神に裁かれ退けられるということです。

 なぜ神学者たちが共通してエレミヤ書を思い起こすのかは、「生ける水の源である主を捨てたからだ」とある「生ける水の源」という言葉にあります。このときは仮庵祭のあとで、その祭りの最中に主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(37)と言われたのですが、だれも主イエスに「生ける水の源」を求めて来なかったのです。

 

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と主イエスから言われて、人々はひとりまたひとりとその場から立ち去って、女性と主イエスだけになりました。この女性も立ち去ることもできたでしょう。しかしこの方こそ、自分を裁くことができるお方と信じて、その場を離れることができなかったのではないか。

 主イエスは女性にたずねられました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」(10)女性は答えました「主よ、だれも。」(11)この告白に、「主よ」とあるように、主イエスへの信仰を見いだすことができるのではないでしょうか。

 主イエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11)「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」とは、その主の御言葉によって、もう罪を犯すことはない、と恵みのうちに生きることができる語りかけでもあるのです。二度と、同じ罪を犯すことはなく、主の恵みに生きていったでしょう。

 「わたしもあなたを罪に定めない」とは、裁かない、という意味ではありません。彼女を確かに裁かれたのですが、罪に定めない、わたしの恵みに生きる者とあなたはなる、と約束されたのです。パウロもまた、主の御言葉を恵みのなかで聞き続けたことでしょう。私どももまた、「わたしもあなたを罪に定めない」と、主イエス・キリストの御言葉を、信じて聞くことができるのです。

 この女性はやがて、自分を引き出した者たちが、主イエスを十字架に殺してしまったことを知ったでしょう。そして、自分が石で打たれなければならなかった、その裁きが主イエスにおよんだことを知って、「わたしもあなたを罪に定めない」と語られた御言葉の深い意味を悟っていったはずです。彼女  は初代教会の一員となったと言われます。繰り返し繰り返し、自分が受けるはずのものを主イエスが受けてくださったこと、「わたしもあなたを罪に定めない」と語られた御言葉の恵みを教会の仲間や人々に語った、だからヨハネによる福音書に記されたのだと思います。

 「わたしもあなたを罪に定めない」と語られた御言葉の恵みに共に生きていきましょう。人を裁く罪を、繰り返し、主イエスに教えられて、人を裁くところから立ち去ることができるように祈り求めます。罪をゆるしてくださる主の恵みに、すなわち「わたしもあなたを罪に定めない」と語りかけてくださる主の恵みに生きていきましょう。


 

 
 
 

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