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2026年2月8日(日)

【降誕節 第7主日


礼拝説教 「イエスを信じるために」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 7:40-52


<讃美歌>

(21)26,2,208,458,65-2,29

 

  光に照らされると、影ができます。私どもが太陽の光に照らされると、自分の影が地面にうつります。舗装されていない土のところでは、影がくっきり映ります。子どものころには、影を踏まれないように追いかけ合う、影ふみという遊びをしたのを、ふと思い出します。なぜ、こんな話をするかと言いますと、舗装された道路をもっぱら歩いて自分の影をあまり意識しないように、主イエスという光に照らされた自分の影を、心にとめることができているだろうかと示されました。

 それは、今日与えられています箇所に、主イエス・キリストに照らされた人々の影が映し出されているからです。私どもも、主イエス・キリストに照らされたときの自らの影を示され、さらに影に見をとめるだけではなく、光である主のもとにひざまずいて、その恵みを祈り求めていきたいと願います。

 光である主イエス・キリストの御言葉がすぐ前の箇所で語りかけられています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(37・38)人々は、主イエスの御言葉の光に照らされ、どのように応えたのか、それが今日の箇所です。

 どのような反応だったか、ひとつには、「この人は、本当にあの預言者だ」(40)というものです。「あの預言者」とは、モーセのような預言者がもう一度遣わされるという、神の約束によるものです。申命記18章18節に、モーセが主なる神から語りかけられた約束を記しています。主はモーセに言われました。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。」確かに、かつてモーセに与えられた預言は、主イエス・キリストによって成就したのです。主イエスがモーセのようであるということは、私どもを罪のもとから救い出して、神の恵みのもとに生かしてくださるということです。また、モーセに導かれた民は、荒れ野の旅で、絶えず水がない苦しみを経験しました。私どもも、生きていく中で魂のかわきを経験しますが、主なる神が満たしてくださるのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」という主イエスの御言葉を文字通り信じて主のもとに行くことができるのです。

さらには、「この人はメシアだ」(41)という人々もいました。「メシア」とは、キリスト、救い主のことです。皆さんの中には、「あの預言者」とか「メシアだ」という人々のどこに問題、影があるのかと、疑問に思われるかもしれません。確かに、ヨハネ福音書はふさわしい思い、すなわち罪から救い出してくださる主イエス・キリストを信じて、「あの預言者」「メシア」と書いていますが、当時の群衆はそうではなかったようです。6章にはイエスを王にしようとする人々から退かれる姿(15)がありますが、群衆は、軍隊を率いてローマから解放してくれるような、モーセの再来、メシアを思い描いていたようです。

また、群衆の中には、「メシア」であることを否定する者たちもいました。ガリラヤからは救い主、メシアはでないことを指摘したのです。「ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」(42)と言ったのです。彼らは、主イエスがベツレヘムでお生まれになったことを知らなかったのでしょう。

 45節には「さて」とあり、当時の指導者たち、祭司長やファリサイ派の人々が、下役たちをとがめている姿があります。「どうして、あの男を連れて来なかったのか。」下役とは、しもべで、主人である指導者の言うことは、服従して聞く立場にあります。その彼らが命令に従わず、イエスを捕らえて来なかったのは、きわめて驚くべきことです。彼らは「今まで、あの人のように話した人はいません」(46)と答えています。主イエスの御言葉を聞いているうちに、心をとらえられて感動し、手を出せなかった、結果、主人の絶対的な命令に背いてしまったのです。このことは、今後、下役たちのような人々の中から、主イエスの弟子になる者が起こされていったことを示唆しているように思います。

 ファリサイ派の人々は怒りにふるえたことでしょう。「律法を知らないこの群衆は呪われている」(49)とさえ口にして、自分たちの正しさを主張します。「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。」(48)議員とは、最高議会であるサンヘドリンの議員のことですが、そこにいた議員のひとりであるニコデモが応答しています。「以前イエスを訪ねたことがあるニコデモ」(50)とヨハネは記しています。ニコデモと、名前が記されているのは、のちにイエスの弟子になったのではないかと言われます。彼は、主イエスが十字架にいのちをささげられたとき、墓に葬る手伝いをしたとヨハネは記しています。そんなことをすれば、議員の資格を失い、ユダヤ社会からも追い出されていったのではないか。ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(51)

 私どもも、ニコデモが言っていることがきわめて当然のことだと納得しますし、それをしないで追いやろうとしていたとしたら、当時の指導者自体が裁かれるべきだったはずです。さらには、皆さんの中にも、ニコデモの発言が、主イエスへの思いから出ていると感じられる方があると思います。大部分の者たちが認めていることが、間違っていると指摘することは勇気がいることですし、ときには、自分の立場を失うことも覚悟しなければならないからです。おそらく、主イエスを墓に葬ったときも、ニコデモは自分の立場を失う覚悟で、せめてもの思いをもって、主イエスのおからだをいたわったことでしょう。そのようなニコデモの行いの始まりは、3章に記されています。

 ニコデモが、主イエスに会いに行ったのは夜のことでした。議員であるニコデモは、人目をさけたのではと言われますが、夜は祈りのとき、御言葉を学ぶときでもありました。ニコデモは主イエスから、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3)と言われて、よくわからなかったのです。主イエスは「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と語りかけられました。「水と霊とによって」とは、洗礼の水とそのとき賜物として与えられ、共に生きてくださる聖霊のことだと教会は信じてきました。まさに、主イエスを信じて授けられる洗礼によって、新しく主なる神と共に生きることができるのです。それは、モーセが奴隷の民をエジプトから導き出したように、主イエスが私どもを、罪のもとから救い出して、神の恵みのもとで生かしてくださることです。

 ニコデモに主イエスは、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」(14)と言われて、御自身の十字架のことを語りかけられました。モーセが荒れ野で蛇を上げたのは、人々が不信仰によって裁かれて、蛇にかまれて苦しんだとき、主はその蛇から助け出してくださるために、モーセに青銅の蛇をつくって、そのしるしをかかげるように命じられました。人々を苦しめた蛇が裁かれてかかげられたように、主なる神は、私どもの罪を十字架に裁いてくださいました。しかも、独り子である主イエスを私どもに代わって裁き、十字架にかかげてくださったのです。

 私どもに代わっていのちをささげてくださった主イエスを信じて仰ぎ、救われるのです。そのような、主イエスを救いの光として仰ぎ見る招きが、今日の箇所で始まっているのです。むしろ、救いの光が強くなるところで、その光の影もまたはっきりと浮かび上がっています。ヨハネは、光のところへ来る幸いを告げています。私どもは自らの影、闇を知ることがあります。それは、御言葉によって知るのです。

しかし闇は光に照らされると光となります。主イエスは、御言葉を語りかけてくださいます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」これからも、御言葉の光に照らされて、主イエスを信じて従っていきましょう。


 
 
 

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