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2026年1月18日(日)

【降誕節 第4主日


礼拝説教 礼拝に招かれて


伊藤 智 牧師(横浜英和学院)

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 2:1-12


<讃美歌>

(21)26,10,286,403,65-1,29

 

この朝、わたしたちが聞いたヨハネによる福音書は、まさにその最初の礼拝を形づくった出来事を伝えています。それが「カナの婚礼」です。

これまでヨハネによる福音書には、イエスさまが弟子たちを一人ひとり招かれたことが書かれていました。アンデレ、もう一人(伝統的にヨハネとされます)、シモン・ペトロ、フィリポ、ナタナエルの五人です。ナタナエルは最初、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と疑っていましたが、イエスさまと出会い、その言葉とまなざしに心を動かされて、「あなたは神の子です」と信じる人になりました。

 

そのすぐ後に置かれているのが「カナの婚礼」の話です。ヨハネはここで、「あなたも招かれている」ということを伝えようとしているのです。舞台はカナという小さな町。地元に帰ったイエスさまは婚礼に出席し、弟子たちも招かれていました。ところが祝いの席で大事件「ぶどう酒がなくなってしまった」。ユダヤの結婚式は一週間も続く盛大なものでしたから、飲み物が足りなくなるのは大変な失態でした。

 

イエスさまは召使たちに言われました。「水がめに水をいっぱい入れなさい。」その通りにすると、水はぶどう酒に変わり、しかも「最も良いぶどう酒」になりました。ヨハネはこれを「イエスが最初に行ったしるし」と呼びます。つまりこれは単なる奇跡ではなく、イエスさまが何を示されたかを語る出来事だったのです。

 

「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた。」(2:11)――ここにイエスさまの「栄光」が現れたと書かれています。けれども、その栄光とは何でしょうか。弟子たちは奇跡を見て信じたのではなく、「自分たちがイエスさまによって招かれた」ということを信じたのです。

 

興味深いのは、「信じた」と言われたのが、新郎新婦でも、召使でも、世話役でもなく、弟子たちだったことです。つまり、信仰とは「奇跡を体験すること」ではなく、「自分がここに招かれたことを信じること」なのです。あなたも、ここに招かれている――それこそが、イエスさまの栄光です。

 

 イエスさまの栄光を考えた時に、私ははじめ母マリアの願いに答えることが栄光だと思いました。ところが、イエスさまは、母マリアの願いにすぐ応えず、「わたしの時はまだ来ていません」と言われた。その「時」とは、十字架の時です。イエスさまの栄光とは、人々の前で力を示すことではなく、十字架の上で、人の罪を受けとめることによって現された神の愛でした。

 

十字架とは、イエスさまが、私たちの罪をすべて受け入れたしるしです。教会とは、人をさばく場所ではなく、赦す場所。拒絶する場所ではなく、招く場所です。イエスさまは今も、「あなたなんか必要ない」と見捨てることなく、「生きよ」と語りかけておられます。だからこそ、私たちはこの場所に招かれ、赦されて生きているのです。

 

水がぶどう酒に変わったあの日、世話役はその理由を知りませんでした。しかし、召使たちは知っていました。イエスさまがなさったことを。教会の礼拝も同じです。どこからこの恵みが来たのか、私たちは知っています。それはイエスさまからです。ぶどう酒も、婚礼の喜びも、すべてイエスさまのもとから来るのです。

 

弟子たちは、婚礼で何をしたわけでもありません。ただ招かれ、イエスさまの業を見て信じました。これが弟子たちの信仰の姿勢でした。そして今、わたしたちも同じように招かれています。教会に初めて来たときは何をしていいかわからなかった。でも、年月がたつうちに、この場所が自分にとってかけがえのない「食卓」になっていきます。

 

わたしたち一人ひとりが、イエスさまの弟子として招かれ、恵みの食卓にあずかる者とされている――そのことを感謝したいと思います。イエスさまの栄光を見つめ続け、その招きに応え、仕えていきたいと願います。

 

アーメン。


 
 
 

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