2026年1月25日(日)
- shirasagichurch
- 2 日前
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【降誕節 第5主日】
礼拝説教 「真実な人」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 7:1-24
<讃美歌>
(21)26,15,130,378,65-1,29
今日与えられています箇所は、仮庵(かりいお)祭での出来事です。仮庵とは、仮の住まいのことですが、旧約時代の民が荒れ野で旅をしたことを記念する祭りです。奴隷生活をエジプトでしていたのが助け出されて故郷へと旅をしました。荒れ野での旅ですから、いつも仮の住まい、テントのようなものを住まいとして生活していました。そのことを、時代をこえて忘れないようにしたということです。
荒れ野の時代と聞くと、戦後間もない頃を過ごされた方は、その頃の厳しい生活を思い起こされるかもしれません。だんだんと、戦後の時代を生きた方の話を聞くことが難しくなってきています。私どもも、何か戦後を忘れないようなことをしてもいいかもしれません。もちろん8月の第一主日には、毎年平和聖日の礼拝をささげて、かつてのことを忘れないようにしているのです。
ユダヤ人たちは、仮庵祭で、実際に仮の住まいをつくってそこで1週間ほど生活します。ある方は、家の庭に仮庵を作るようですし、庭のないマンション住まいの人は、マンションの一室にテントを張って生活すると聞きました。
荒れ野の旅のことを聞きますと、ある方は、私もそうですが、人生がこの地上での旅にたとえられるのを思い起こされるかもしれません。この地上での生活は、いつかは終えるときが来ることを頭では分かっていても、それを絶えず意識することはないかもしれません。しかし、天にあるふるさとに、主なる神のもとに行くときが備えられていることを信じて生きることが必要です。
主イエスもまた、天の父なる神のもとに帰るときを見据えて歩みぬかれました。父なる神にご自身のいのちをささげて、私どもの救いの道を開くためです。そのときが、この箇所の仮庵祭のときではないことを知っておられたようです。しかし、荒れ野の旅をしたことを記念する祭りのときに、主イエス御自身の地上での荒れ野の旅に思いを深め、また私どもの地上での歩みに救いをもたらそうとなさっておられたのです。
主イエス・キリストは、主イエス御自身の地上での荒れ野の旅に思いを深め、何をお示しになったのでしょうか。それは、「真実な人」の姿であります。道にたとえるなら、どちらに歩むかによってその先は全く違う、分かれ道で聞くような御言葉です。分岐点に立って、主は言われるのです。18節「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」
「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」とは、まず主イエス・キリストご自身のことを語っておられます。父なる神の栄光のために仕えておられることを言われ、御自身の栄光を自分勝手に求めておられないのはこの福音書全体が伝えていることでもあります。しかし、御自身を救い主と信じて従う者にも、主イエスは「真実な人」の歩み、自分の栄光ではなく、主なる神がたたえられることを願う歩みに生きる幸いを示して招いておられるのです。
このときの、仮庵祭での主イエスの周りにいた人々のことを思いますと、弟子たちも、主イエスの家族の兄弟たちもそうですが、果たして主イエスと同じように、主なる神の栄光を求めて生きていた人がいたのだろうかと思います。その意味では、ただひとり、主イエスは「真実な人」として歩みぬかれて、その歩みに、弟子たちがならうことを、のちの教会がならって「真実な人たち」として生きることを願っておられるのではないでしょうか。
仮庵祭での主イエスの周りにいた人々のことを思いますと、主イエスの兄弟たち、その家族の者たちがこう言っています。3節「イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業(わざ)を弟子たちにも見せてやりなさい。』」しかし、5節には「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」とあります。どういうことを意味しているのでしょうか。兄弟たちが「見せてやりなさい」と言ったことは、いわゆる奇跡のことです。不治の病をいやしたり、人々が驚くような奇跡を行って、あなたを信じさせたらいいと言っているのですが、そこには主イエスへの真実な信仰は見当たらないということです。家族の者たちがすすめたことは、主イエスが自分への称賛を勝ち取っていく道であって、「真実な人」として、父なる神の栄光を求めて、御自身の命をささげる歩みとは道がずれているのです。分かれ道で、主のみこころからはずれた道へと行くことになるのです。
そのような、主イエスの道と、人々が自分の栄光を求める道がずれていることは、ヨハネの教会が心に刻み続けたことではないかと思います。それは、人はいつのまにか心に高ぶりをいだき、自分の名が高められるために歩んだりすることがあるからです。もっと違う言い方をすれば、人からどう思われているかということから、なかなか自由にならない者は、立ちどまって、果たして主なる神の栄光のために生きようとしているか、心を照らされる必要があるのです。もっと言うと、自分たちの栄光のために、神様に動いてほしいと願うようなことはないかということです。
人はどこまで行っても「自分の栄光を求める」ことは、当時の指導者もそうでした。彼らはイエスを殺そうとしていたのであって、実際に十字架に架けて殺してしまいました。しかしその罪の姿は、私どもと無関係と言えるでしょうか。
ヨハネの教会はおそらく、「真実な人」として歩みぬき、自らの栄光を求めて主の道からはずれないよう、ずっと思い巡らし続けていったと思います。
主イエスがこのように祈りなさい、と教えてくださった主の祈りは、その前半はすべて神の栄光を求める祈りです。そして、私どもの必要を祈るように教えてくださいました。しかし私どもの正直な祈り、自然な祈りはいつも、私もそうですが、まず自分のこと、自分たちと家族からはじまって、それで終わることがあるのではないでしょうか。
主イエスは、神の愛によって語りかけられました。それは、自分のこと、自分たちのことを求めることに終ってしまうような私どもをすべてご存じの上で、語りかけられました。
「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」「不義がない」とは、罪に生きることがない、主イエスの道に生きることの幸いを強く示されました。私どもを無理にしばっていくためではなくて、私どもの幸いのためにこそ、「真実な人」として、まず神の栄光を求めて生きることを教えてくださったのです。
水は自然に高い所から低い所へ流れます。私どもの心も、自然にしていれば自分の栄光を求めて、自らが称賛され認められることへと流れていくように思います。しかし、主の恵みの働きによって、主なる神の栄光を求めていく「真実な人」となっていくよう、祈りつとめていきましょう。





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