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2026年2月1日(日)

【降誕節 第6主日】聖餐


礼拝説教 「いのちの流れ」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 7:25-39


<讃美歌>

(21)26,12,432,404,81,65-2,29

 

  主イエスは、エルサレムの神殿で過ごされています。そのときは、仮庵祭という大事な祭りの最中でした。10月ごろの祭りなので、収穫感謝の意味もあったようですが、仮庵、仮の宿という名前からその祭りがなぜ祝われるのかを知ることができます。旧約の民がエジプトで奴隷の生活をしていたところから助け出されて、故郷への旅をしました。その旅は荒れ野の旅で、天からの食物、マナによって命をつないでいったのです。砂漠を旅するのですから、水も十分にはなくて渇きに絶えられず、しばしば指導者のモーセに不満をあらわにしたのです。しかし神の憐れみによって、ときには岩から水がわき出るような奇跡を経験しながら旅をつづけました。その荒れ野の旅は、たえず仮の宿、仮庵での生活でしたから、かつてのことを忘れないように、主が助けてくださったから今があることを思い起こす時として、仮庵祭を続けていったのです。

 しかし、私どももそうですが、いつの間にか形式的になってしまって、本来の意味合いを忘れてしまうことがあるのです。仮庵祭のときに、神殿で礼拝がささげられますが、その礼拝も、神の御前に出る礼拝であることが忘れられて、単なる毎年恒例の祭りとして持たれていたら、それは悲しむべきことです。私どもも、毎週の礼拝は、神の御前に出て、生きておられる主なる神と出会っていることを信じてささげているでしょうか。

 いま祈祷会では、イザヤ書を学んでいます。新約聖書に救い主イエス・キリストの預言がイザヤ書からいくつも引用されていて、詩編と共にもっとも多くの預言が記されている書です。そのイザヤが預言者として神に召された召命のとき、イザヤは主なる神に出会い、自らの罪と過ちを示され、とても神の御前に出ることができない者として、このように告白しています。

「ああ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇(くちびる)の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(6:5)

 「ああ」という言葉は、新共同訳では「災いだ」と訳されていますが、原文では「オイ」とい感嘆を表す言葉なので「ああ」と訳しました。イザヤは、聖なる神に照らされたら、自分もまた民同様に汚れた者であり、罪を深く自覚したのです。また、聖なる神を見ることは、旧約の時代には死を意味しましたから、その意味でも「わたしは滅ぼされる」と告白しました。しかし、恵みと憐れみに富む神は、神の使いによってイザヤの口に火を触れさせて言われました。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎(とが)は取り去られ、罪は赦された。」

 イザヤが経験したことは、のちの時代、主イエス・キリストが救い主として来られて、私どもの罪が赦される恵みを指し示しているのです。しかも私どもは、主イエスが十字架で私どもに代わって裁かれてくださったことによって罪が赦されることを信じて救われるのですが、その救いの出来事に働かれるのは、聖書の御言葉と共に働かれる聖霊です。イザヤが経験したことはまた、聖霊のお働きを指し示しているのです。

 イザヤは預言者として、神から遣わされて、主の御言葉を伝えましたが、それは、罪を赦された者として伝えたのです。私のように神の憐れみを受け入れるように、自らの罪を知って主に罪を告白して、主の贖いを受けとるようにということです。それは、私どもも同じことで、先に罪を赦された者として、あなたもわたしのようになってください、と教会は主の救いを伝えて来たのです。

 ヨハネによる福音書で、仮庵祭のときに、人々はなかなか主イエスのもとに、救いを求めて来ることができていなかったようです。そこには、障壁がありました。ひとつは、指導者たちを恐れていたことです。主イエスが当時の指導者たちが、聖書の御言葉の本質を見失っていたことを指摘されました。指導者たちにとっては、自分たちが築いてきたことが崩されようとしているのですから、しりぞけて殺そうと思っていたのです。ひとつのきっかけは、安息日に長年病気だった人を癒されたときに指導者たちは安息日に休むように命じている律法をやぶったと批判しました。しかし主イエスは、安息日に割礼をほどこすことをしているのに、どうして病気の人をいやすことが律法をやぶったことになるのかと問われたのです。答えることができなかったと思います。

 また人々は、イエスという人が、ガリラヤ育ちであることを知っていて、自分たちと全く同じ人であることによって、神のもとから来られた救い主であるとは信じられなかったようです。しかし、どこまでいっても、私どもの小さな頭で主なる神が人となられたことを理解しつくすことはできないように思います。知り続けているのです。主イエスが「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」(33)と言われた御言葉を理解できるように働かれるのは、主なる神の聖霊の働きです。「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」とは、十字架にかかられて神の裁きを人に代わってその身に受け、復活されて天にお帰りになることです。教会は代々にわたってそのことを信じて、使徒信条においても告白してきましたが、聖霊の働き無くしては続かなかったのです。

当時の人々、この個所で仮庵祭を祝っていた人々はまだ、神様からの賜物としての聖霊を受けていなかったようです。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったのである」(39)とあるとおりです。「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」とは、十字架において神の愛を現わされ栄光をお受けになったのです。最後の晩餐の祈りで、主イエスはこう祈られました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください。」(17:1)その祈りは聞き届けられ、主イエスは十字架で栄光を受けられました。

 主イエスは御自身の命をささげて、私どもが聖霊のお働きに生きるようにしてくださいました。ですから、教会が礼拝をささげて、信仰をもって神をたたえ、主イエスを信じて生きることができるのは、聖霊のお働きがあるからです。それはまた主イエスの尊い命がささげられたからであることを忘れてはならないのです。そのことを信じて受けとめ、神の御前に出て礼拝をささげ続けましょう。

 主イエスは私どもに与えられている聖霊の働きを、水にたとえて語りかけられました。それは、仮庵祭の最後の日です。シロアムの池から黄金のひしゃくで水を汲んで、その水が神殿の礼拝にささげられました。しかし主イエスは、神様が私どもの魂をうるおして満たしてくださることを語りかけてくださいました。37節以下です。「渇いている人は、だれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって、流れ出るようになる。」このことは何を伝えられたのかと言えば、39節にあるとおりです。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」“霊”とは、聖霊のことです。

 御言葉に伴う聖霊の働きは、礼拝の恵みの働きです。それなくして礼拝は成り立たないことを感謝して、こころに刻み続けていきましょう。「聖書に書いてあるとおり」とは、イザヤ書の12章3節に「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」とありますが、それがやがて人々が主イエスを信じていただく聖霊のことだと言われたのです。信じて聖霊をいただくのは、教会は洗礼のときだとはっきり信じてきました。使徒言行録の2章38節にこうあります。それは、聖霊が教会に与えられて教会が誕生したときに、ペトロが説教した言葉です。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 賜物は、神様が与えてくださらなければ受けることができないもの、しかも、主イエスが十字架で栄光を受けられなければあり得なかった、恵みの賜物です。

 主イエスは今もなお、神の愛をもって招いておられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」人が生きるのは、魂のかわきを主がうるおしていやしてくださるからです。人が生きる、いのちの流れの源は主なる神にあることを信じて、御言葉の泉から、救いの泉から水を汲んで生きていきましょう。

 

 
 
 

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