top of page

2026年1月11日(日)成人祝福

【降誕節 第3主日


礼拝説教 「神からの命と息」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 6:60-71


<讃美歌>

(21)26,11,227,515,65-1,29

 

  主イエスが御言葉を語りかけられたときに聞いていた、人々の反応が記されています。60節「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

 人々は何を聞いたのでしょうか。「わたしは天から降って来たパンである。」(41)「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」(47-48)そのように、最も大切なことを語りかけられました。命のパンである主イエス・キリストを食べることは、主イエスが救い主であると信じて、罪の赦しと主なる神の命をいただくことであります。それは、礼拝の恵みであり、また、聖餐の恵みであります。「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(57)と語りかけられました。

 しかし、聞いていた人々は「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言って、理解できず、その御言葉を拒んだ、自らのものとして食べようとはしなかったのです。しかも、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言ったのは、「弟子たちの多くの者」です。群衆ではなかったことは、立ちどまって思い巡らせる必要があります。

 主イエスを信じて従っていた弟子たちでしたが、その信仰の中心に、主イエス・キリストの十字架の救いがなかったということではないか。つまずいた弟子たちは、この偉大な教師であるイエスに、いや預言者だと思っていたかもしれないイエスに、自分たちの王になってほしいと思ったようです。ローマ帝国の支配から解放してくれる、軍隊を率いる王です。喜んで兵士に志願して武器を手に取って命をささげる覚悟があったかもしれない。しかし、主イエス・キリストが語られる「命のパン」のことを聞き、しかもその「命のパン」がイエスだと聞くと、つまずいてしまったのです。

 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつまずく弟子たちに、主はなおも語りかけられました。そこに神の愛があるのではないでしょうか。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・。」(61・62)「人の子」とは、人間のことですが、主イエス・キリストは、御自身が私どもと全く同じ人となられたことを示すためでしょう、「人の子」と御自分のことを言われます。さらには、旧約聖書では「人の子」は、新約の時代に近づくにつれ、メシア(救い主)を意味する言葉として用いられるようになりました。

 救い主である主イエス・キリストが、「人の子がもといた所に上るのを見る」と聞くと、復活なさったあとの昇天のことだと思われるかもしれません。もちろん、昇天を含んでいるでしょうが、ある神学者によると、ヨハネによる福音書では、十字架に上げられてそこで神の栄光をあらわされることだと言います。神に裁かれて退けられるべき人のために、神の独り自らがその裁きをその身に受けて、神の愛をあらわされることは、神の栄光を私どもにあらわされることであるのです。それは、人の乏しい心や理解では、信じきれないことではないか。食するには、かたい食べ物、すぐに味わいが感じられないものかもしれません。「実にひどい話」と訳されている言葉は「かたい話」という意味でもあります。理解するにはあまりにも、かたい食べ物のように「かたい話」であるのです。

 ある神学者は、このヨハネによる福音書が書かれた当時のことを思い起こしています。それは、エルサレム神殿が70年にすでに破壊されていて、迫害につぐ迫害の時代だったのです。「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(66)とは、当時の状況と重なるようにして、当時の教会は呼んだのではないかということです。しかし、主なる神のなさることを、だれも留めることはできませんでした。主イエス・キリストの御言葉にある通りです。

 「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。」(63)「肉は何の役にも立たない」とは、人間のわざは人を救うことができないことを語っておられるのです。”霊“とは、聖霊のことですが、主なる神の霊、聖霊御自身が、私どもを生かす救いの命を与えてくださるのです。その聖霊の働きは、御言葉と共に働かれるのですから、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と語りかけらました。

「霊」と訳される「プネウマ」は、「息」という意味でもあります。それは命の息、命の息吹です。主の御言葉を聞いて、御言葉を受け入れ食べていくときに、主の御言葉は私どもに命の息を与えて、生かしていくのです。魂が身動きがとれないように硬直して、どうしようもないときに、主が私どもに、命の息である聖霊の働きと共に御言葉を食べさせてくださるのです。

 しかし、この個所には、硬いとげのように突き刺さって、代々の教会が心にとめてきた御言葉があります。そのような御言葉を避けるべきではないでしょう。深い嘆きをもって、主イエス・キリストは語られました。70節「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中のひとりは悪魔だ。」イスカリオテのユダのことを言われました。最も近くにいて従っていた弟子のひとりです。そのような者が、主イエスを裏切り、捨てていく悪魔になりうることは、人の罪のどうしようもない深さ、闇を示しているでしょう。その罪の闇の深さを知ると共に、神の愛の光をさらに受けとめる必要があります。人の罪の救いがたい闇に、主イエスは光を与え続けてくださっているのです。主イエスは最後まで、イスカリオテのユダを愛しぬかれました。最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われたときに、ユダの足をも洗われたのです。そこに神の愛があります。

深い神の愛をもって、主イエス・キリストは御言葉を語りかけてくださいます。「わたしは天から降って来たパンである」「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである」との御言葉を、私どもは、命の御言葉として味わい続ける恵みを与えられています。

深い神の愛をもって、主イエス・キリストは御言葉を語りかけてくださいます。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とは、主が尊い命をささげられたことによって、主の御言葉が私どもを生かす霊、命の息となることを信じていきましょう。


 
 
 

コメント


© 2023 by COMMUNITY CHURCH. Proudly created with Wix.com

bottom of page