2026年1月4日(日)新年礼拝
- shirasagichurch
- 1月4日
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【降誕節 第2主日】
礼拝説教 「命のパン」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 6:41-59
<讃美歌>
(21)26,1,56,367,65-1,29
新年最初の主日礼拝をささげることができる恵みを感謝します。与えられています箇所は、新年の祝福の御言葉として、共に聞くことができます。とくに、47節48節を新年の祝福の御言葉として与えられました。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」
信じる者とは、主イエス・キリストを救い主として信じる者のことです。それは、信じて、こうして礼拝をささげている私どもへの主の御言葉としてそのまま受け入れることができます。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」
「永遠の命」について、どんなことを思い浮かべられるでしょうか。命がどこまでも永遠に続くという、時間の長さの意味での永遠を思われるでしょうか。もちろん、そのことを含んでいますが、ヨハネはむしろ、永遠の神とのつながりに生きることをまず、思い浮かべていたと思われます。
主イエス・キリストが、十字架を目前にして、弟子たちと最後の晩餐を共にされ、そして、祈られました。その祈りの中に、「永遠の命とは」という祈りがあります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ることです。」(17:3)「知る」というのは、ただ情報として知ることではなく、その命のつながりに生きていくことです。
ですから「信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」とは、命を与えてくださる主なる神とのつながりに生きていることの幸い、祝福が告げられているのです。「わたしが命のパンである」と言われた主イエス・キリストは、こうも語りかけられました。
「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」(55)
この御言葉について、ヨハネの教会の者たちは、主の聖餐のパンと杯だとよくわかったはずです。最後の晩餐の席で主は言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカ22:19)また杯についても語りかけられました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22:20)
「はっきり言っておく。」と言われたのは、とくに大切な御言葉だからです。心に刻むべき、と言ってもいいですし、ひとりひとりの体の一部となるように生きることを望んで語りかけられたはずです。「はっきり言っておく」とは、聖書の原語では、「アーメン、アーメン」という言葉です。
先日、CSに来ている子どものひとりの子が、「アーメンてどういう意味?」とたずねてきました。その子は、2歳ぐらいから通って、ほかの子と一緒に「アーメン」と大きな声でお祈りのときに、声を合わせますが、いま5歳になって「アーメンてどういう意味?」とたずねてきました。「ほんとうに、とか、そのとおり思いますという意味だよ」と伝えましたが、そういう質問があるのがうれしくなりました。
主イエスもまた、「アーメン、アーメン」「ほんとうに、ほんとうにそのとおり、信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」と語りかけられたのです。わたしどもに命のパンを食べさせるために、主が命をささげられたことを、教会は信仰をもって受け入れ、感謝して、いただき続けてきました。「感謝して」と言いましたが、「感謝」という意味の、エウカリスティアという新約聖書のギリシャ語が、聖餐のもともとの名前だと言われます。
さらに、先日の礼拝で申しましたが、旧約聖書で「感謝する」と訳される、「ヤダ―」は、告白するという意味です。その主なる神への告白の中身は、感謝であり、ざんげであり、賛美ですので、「ヤダ―」は、告白する、感謝する、ざんげする、賛美する、と訳されます。とてもすばらしい、奥深い言葉です。
ですから、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」との御言葉に応答して生きるとき、私どもは、感謝と、ざんげと、賛美に生きて、主の命に生きるのではないでしょうか。
申命記の御言葉を思いおこします。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)この御言葉は、出エジプトをした民が荒れ野でマナを食べたことを、主が人々に思い起こさせて、それが何を意味していたかを語られました。その御言葉と、この礼拝での主イエスの御言葉が結びつきます。
それは、あの荒れ野での天からの食べ物は、やがて来られる主イエス・キリストを指し示している、「天から降って来たパンである」(41)主イエス・キリストを指し示しているのです。
主は、私どもが日々に生きることの必要、そのすべてをご存知です。困難も、つらさや、悲しみ、病いを知っていてくださる、それらのいっさいを含んで、日々に食べて生きることを、主は支えて満たそうと働きかけてくださるのです。主の祈りには「日ごとの糧をきょうも与えたまえ」と祈るように、主イエスが教えてくださいました。しかし、日ごとに食べて満たされるだけでなく、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせる」と言われます。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」との語りかけは、主の御言葉によって生きる幸いを告げているのです。御言葉を信じて生きることは、主の御言葉を食べて生きることです。
この新しい年も、主の御言葉に生きていきましょう。感謝して、ざんげして、賛美する喜びは、私どもを生かす、礼拝の恵みです。共に、礼拝の恵みに生かされていきましょう。





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