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2026年10月4日(日)

6 時間前
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【聖霊降臨節 第20主日】世界聖餐日


礼拝説教 「神の木の枝とされる」  


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 15:1-10


<讃美歌>

(21)26,17,207,376,81,64,27

 

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1)と主イエスは語りかけられました。とても有名な聖句で、愛されてきた御言葉です。5節にも「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と言われています。この御言葉を愛唱されている方もいると思います。

 なぜ、主イエスがぶどうの木であって、私どもがその枝であることを告げる御言葉が、これまで教会で愛されてきたのか、それは、主イエス・キリストというぶどうの木の枝とされる喜びを知ってきたからではないでしょうか。(11)ぶどうの木の枝であるということは、そのまことのぶどうの木の命とつながり、神の命に生かされ、支えられる恵みをキリスト教会が知り続けてきたということです。私どもも、次週には教会創立80周年の記念礼拝をささげます。改めて、まことのぶどうの木の枝であることの尊さ、喜びを心に刻んでいきたい。何か特別な礼拝をささげるというよりも、いつもの礼拝と変わらず、心を込めて祈り、主をたたえて礼拝をささげます。そこにある恵みは、教会創立以来、変わらずに注がれ続けて来た、神の木から来る命の恵みであることを、感謝して心に刻んでいきましょう。

 主イエスは御自身を、「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。「まことの」と訳されるアレシネーは、偽物に対して本物の、という意味合いがあります。では何と比較されているのでしょうか。それは、旧約聖書でイスラエルの民がぶどうの木にたとえられていることを受けています。たとえば、イザヤ書の5章には、主なる神がぶどう畑をつくったことが語られています。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り よいぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」(5:2)

 酸っぱいぶどうとは、食べることができないことで、イスラエルの民の姿を言っているのですが、主なる神に受け入れられる実りを結んでいない、神の御心からはずれてしまっていることです。それに対して主イエスが「まことのぶどうの木」であるということは、主の御心に適っておられて、豊かな実を結んでおられるということです。実を結ぶことは、神の御心に生きていることです。また主イエスが「まことのぶどうの木」であるということは、枯れることなく、いつまでも私どもの命の木、救いの木として立っておられるということです。

 先ほどのイザヤ書には、旧約の民がぶどう畑に植えられたのに、酸っぱいぶどうを実らせるように、神の御心とはずれた姿が記されています。偶像礼拝に走ったり、主なる神にのみ頼ろうとしないで、大国の力にすり寄って守ってもらおうとして逆に、かつては頼っていた大国、たとえばバビロン帝国に滅ぼされて、捕囚の苦役を強いられるのです。しかし、主は憐れみ深く彼らを導き続けて、捕囚から帰還させる約束を与えられました。そのつきない憐れみが、主なる神を羊飼いとして描いてこう語られています。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(11)主が私どもの羊飼いだということは、とこしえに羊飼いとして導いてくださるのです。そして、そのとこしえに導いてくださることをまた、人を草にたとえて語っています。「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(8)

 人が草のように限りがあり、花のようにひととき栄えているようでもやがてはしぼむ、終わりが来ることに比べて、主なる神は終わらない命の主であり、その憐れみはつきることがない、そのことを「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と告白されています。思い巡らすうちに、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と言われたことは、主イエスが「わたしはまことのぶどうの木」と言われことによって、成就したのではないかと思いました。主イエスがまことのぶどうの木として、とこしえに立ってくださるのです。そして、そのぶどうの木の命は、主イエスの御言葉、神の言葉によって私どもに与えられるのです。

 7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」とあります。主イエスとの命のつながりは、主イエスの御言葉が私どもの内にいつもあることだというのです。主の御言葉を信じて、その御言葉に生きようとする、具体的には「わたしの愛にとどまりなさい」(9)という御言葉です。そして「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(10)とあるように、主イエスの掟に生きることです。主イエスは12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と言われました。教会はこの掟に生きて、主イエスの愛にとどまり、主の命とつながる恵みと喜びに生きてきました。これからも主イエスの愛の掟に生きて、主イエスの愛にとどまり、主の命とつながる恵みと喜びに生きてきましょう。

 あるカトリック教会の神学者が、この箇所について書いている中で、主イエスはぶどうの木であって幹ではない、という意味のことを語っています。はっとしました。どういうことかと言いますと、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と主イエスが言われますが、どこかで私どもは主イエスが幹であって、その幹とつながる枝として私どもをとらえているのではないか。みなさんの中には、それのどこが問題だと思われるかもしれません。確かに、まことのぶどうの木である主イエスにつながるには、幹につながるイメージがふさわしいし、それは何も問題はないと思います。しかし、主イエスが「まことのぶどうの木」であるということは、幹も枝も持っておられる、それ自体として完成された、まことのぶどうの木です。しかし、あえて私どもを深い神の愛によって、接ぎ木するようにつながらせてくださって、命の関係に入れてくだったのです。

 さらにはこの個所で、引っかかる思いをいだくような言葉があります。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」(2)この言葉を、ある神学者は、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダのことを指しておられるのでは言っていますが、果たしてそうでしょうか。ペトロたちも、主イエスの弟子であり、最も近くにいながら、主の十字架を前にして逃げ去ってしまった、それは「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」ということに該当するのでないか。あるいは私どもが礼拝に集って主とつながっていながら、人をゆるせなかったり、罪を犯してしまうことは、つながっていながら実を結ばないことになるのではないか。そう思うと「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」という御言葉を受けとめきれなくなってしまいます。そのとき、主イエスはぶどうの木であって幹ではない、と聞いたとき、はっとしました。どういうことかと言いますと、主イエスがまことのぶどうの木として枝をもっておられ、私どもに代わって、その枝を取り除くように、裁かれてくださったということです。

 ヨハネによる福音書を最後まで読んでも、弟子たちが実を結ばない枝として取り除かれたことはどこにも書かれていません。イスカリオテのユダに対しても、最後までほかの弟子たちと共に最後まで愛し抜かれました。ユダの足をも洗って、彼のために愛を示し続けられたのです。

 そうであるなら、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」との御言葉の前に、主イエス御自身が立ってくださり、私どもに、実を結ぶ道を開いてくださったのです。主イエスは御自身の命をささげて私どもに恵みの御言葉を与えてくださいました。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(5)「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と主イエスが約束してくださいました。その主イエスの約束を信じて、主よ、実を結ばせてください、主の愛の掟を生きさせてください、と祈っていきましょう。


 
 
 

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