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2026年10月25日(日)

5 時間前
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【降誕前節 第9主日】


礼拝説教 「聖霊が明らかにする」 


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 16:1-15


<讃美歌>

(21)26,9,208,344,64,27

 

 主イエスと弟子たちとの最後の食事、最後の晩餐での主イエスの説教が13章から続いています。弟子たちを最後まで愛し抜かれて彼らの足を洗われた後、語りかけられた説教がこの16章で終わり、17章は説教後の祈りです。主イエスの命を注ぎ込んだ、愛の説教です。主イエスの愛の御言葉に思いを深めていきましょう。

 弟子たちは、主イエスの御言葉を聞きながら、すべてを理解できないなかでも、主イエスが地上を去られる日が来ることを受けとめていきました。そうすると、これからどのようにしていいのか、不安になったはずです。主イエスは「あなたがたの心は悲しみで満たされている。」(6)と言われました。自分たちで道を開くことができない、立ち上がることができないような悲しみに、弟子たちが満たされているとき、主イエスは彼らの魂に、御言葉の種をまかれました。それは、やがて実を結ぶ御言葉の種です。あるいはまた、御言葉という光を与えられました。その御言葉の光は、すぐに光り輝くものではなく、やがて主イエスが命をささげられたあと、聖霊が教会に与えられたとき、聖霊と共に輝きを放つ御言葉の光であります。

 そのことを、7節で主イエスは「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」と言われました。「実を言うと」という日本語訳は、とても工夫されていますが、直訳は「わたしは真理を言います」という言葉です。「しかし、わたしは真理を言います。わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」と言われましたが、どう私どものためになるのか、それは「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(7)と言われたように、弁護者である聖霊が来てくださることです。聖霊が来てくださるということは、主イエスが霊として、どこにでも、地の果てまでもあらゆる人々と共に、生きてくださることができるということです。私どもはその恵みにあずかっているのです。

 聖霊はどのようなお働きをなさるのか、8節にとても重要な御言葉が記されています。主イエスは語りかけられました。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」神学生のときに、ある授業で、この一節だけを一学期間学んだことがあります。それほど奥深い御言葉です。

どのように聖霊が世の誤りを明らかにしてくださるのか、それは9節以下ですが「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」とあります。罪とは、的外れ(まとはずれ)とか、ずれているという意味ですが、それが主イエスを信じないことに最も現れ、人々の神とのズレが明らかにされるというのです。神との関係がつながっていないところから、もろもろの罪の行為が生まれて来るとも言うことができます。

さらに「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」と言われました。どういうことをおっしゃっているのでしょうか。義とは、神の義でありますが、主イエスが地上に弟子たちとおられれば、主イエスが神の義そのものですから、義を見失うことはないかもしれません。しかし、主イエスを見ることができないとき、どう神の義を知るのか、それは聖霊が御言葉と共に働いて、神の義を示して導いてくださるのです。義という言葉は、旧約聖書のヘブライ語を背景にもっています。義と訳される、ヘブライ語のツァディークは、神の義がどのような働きをするのかという意味では、恵みの働きと訳すことがあります。ヨハネによる福音書3章16・17節を思い起こします。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

主イエスは「罪について、義について、また、裁きについて」と言われた「裁きについて」11節で言われました。「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」この世の支配者が裁かれ、その誤りが明らかになるというのです。それがいつ、どのようであるかは明らかではありません。主なる神にゆだねるべきことでしょう。16章で説教が終わると言いましたが、その最後の言葉は「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」ここで言う「平和」は旧約聖書の言葉で「シャローム」ですから、人のあらゆる欠けを主が愛を持って満たそうとする、恵みの働きのことです。平和と訳すよりも、愛の働き、恵みによる救いの働き、と言った方が意味が近いと思います。さらに主イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33)と言われました。

ヨハネの教会だけではなく、福音書を受け取った初代教会は、大きな慰めと希望を与えられたはずです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」「あなたがたには世で苦難がある」と言われた苦難は、具体的には迫害がいつもふりかかっていたことです。1-4節にあることも、まさに迫害のことです。主イエスが神の独り子であり救い主だと証言することは、殉教の死をまぬかれないときがありました。証言者が殉教者ということを意味した時代がありました。そのような、悲しみで満たされ、どうしようもないとき、主イエスがそこから起き上がらせてくださった。それは、死から起き上がってくださった主イエスが、キリスト者を死のような苦難から起き上がらせてくださったのです。

キリスト者の苦難は、神の栄光を求めて、主の御心に生きようとするときの苦難です。世にキリストの救いの福音を伝えていくために教会は召されたのですから、その使命に生きるように、聖霊が共に生きてくださるのです。20節で「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と約束してくださいました。苦難から起き上がらせてくださるのです。聖霊のことを、主イエスは弁護者と言われました。これはパラクートスの訳ですが、かたわらにいて助ける、慰めるという意味合いがあります。助け主と訳すこともありますが、私どものかたわらに共に主がいてくださる、その恵みの働き、シャロームを実現してくださるのが聖霊です。

先ほど、主イエスの語りかけに旧約聖書の言葉があると言いました。新約聖書をヘブライ語に訳した聖書を持っていますが、16章8節「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」の「裁き」と訳されている言葉は、ヘブライ語で「ミシュパット」に訳されていました。ミシュパットは、裁きと訳せますが、むしろ、公正と正義という意味です。さらには正義や公正という秩序の意味があり、秩序があるところにしっかりとした道が示されますから、道とも訳すことができるのです。神の裁きは、そこに正義と公正という秩序をもたらして道をしめす、むしろ神の愛の働きです。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(14:6)と言われましたが、主イエスという道と真理と命を、私どもに明らかに教えてくださるのが聖霊の働きではないでしょうか。罪について、義について、裁きについて、とありますが、聖霊の恵みによって、罪から救い出して神の命につなげ、神の義という真理に導き、裁きによって道が示されることを思いますと、主イエスという道、と真理と命を、私どもに明らかに教えてくださるのが聖霊の働きではないでしょうか。そのことは13節で「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」と主イエスが約束されたことです。真理の霊、聖霊が御言葉の真理をことごとく悟らせてくださるのは、生涯を通してのことです。とこしえに至ることです。

先ほど罪は、もともとの意味が神とずれていることだと言いました。私どもはいつも礼拝において、ズレが戻されて、しっかりと主なる神とのつながりに生きる喜びを味わっているのではないでしょうか。御言葉に伴う聖霊の働きを信じて祈りつとめ、主の愛の働きに生きていきましょう。


 
 
 

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