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2026年10月11日(日)教会創立80周年記念礼拝

6 時間前
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【聖霊降臨節 第21主日】教会創立80周年記念日礼拝


礼拝説教 「キリストの友として」 


 願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 15:11-17


<讃美歌>

(21)26,351,394,543,64,27

 

 この朝は、白鷺教会創立80周年記念礼拝をささげています。白鷺教会のここまでの歩みを、振り返るときに、主がおられなければここまで来ることは決してできなかった、主の深い恵みと憐れみがあったことを共に告白して、感謝をささげましょう。教会のホームページに、「白鷺教会の歩み」というものが記されています。読み上げますと、​1945年12月 9日:山本 和 牧師の自宅において最初の礼拝が行われる、1946年10月12日:日本基督教団「鷺宮家の教会」創立、1951年 8月5日:「白鷺教会」と改名。旧会堂献堂 1952年10月 9日:斎藤 佑(たすく)牧師就任、1953年 2月15日:気仙 三一 牧師就任、1957年 4月 1日:竹井 祐吉 牧師就任、1975年 1月26日:旧会堂増改築献堂、1993年11月14日:現会堂献堂、2003年 4月 1日:岩本 聖史(さとし) 牧師就任​、2020年3月31日:​岩本 聖史 牧師退任、2020年4月1日:代務牧師 古屋 治雄 牧師(阿佐ヶ谷教会)就任、2021年3月31日:代務牧師 古屋 治雄 牧師(阿佐ヶ谷教会)退任、2021年4月1日:​願念 望 牧師就任。80周年は、1946年10月12日の創立から数えてのことです。簡単な年表では表しきれない恵みを受け、多くの仲間の、主にある献身によって支えられてきました。

 礼拝ではヨハネによる福音書から主の御言葉を聞き続けてきましたが、これまでの歩みを主に感謝して振り返りながら、15章11節以下を与えられていますのは、たまたまではありますが、とても幸いなことです。11節に「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされることである。」とあります。「これらのことを話したのは」とあるのは、主イエスが最後の弟子たちとの食事で話された、遺言説教と言うべき御言葉です。

白鷺教会がこれまで導かれたのは、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされることである」との主の御言葉が実現した恵みを生きてきたことではないでしょうか。「喜び」という言葉は原語では「カラ」ですが、カルという語幹に上より賜るものという意味合いがあります。私どもの喜びの源は主にあるということです。喜びと訳されるカラと、同じ語幹を持っている、カリスという言葉は、恵みと訳されます。恵みもまた上より賜る、主なる神から与えられるもので、その中心に喜びがあります。さらには、喜びも恵みも、主から与えられる賜物ですが、賜物も、カリスマという言葉で、上より賜るものという意味の同じ語幹を持っているのです。言葉を補えば、恵みによる喜びの賜物ということです。

 そのような神の恵みによる喜びの賜物に満たされる道は、主が敷いてくださった道に生きることです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(12)ここでの愛するという言葉は、アガペーという言葉ですから、神の愛を意味して用いられます。神の愛、アガペーは、無償の愛、無条件の愛と言われます。そのような神の愛で互いに愛し合いなさい、と言われると、私どもは自分を見るときに無理難題を言われているように思うでしょうか。しかし、主は掟を与えるだけではなく、その掟に生きる道を敷いてくださいました。主の掟の御言葉に生きる喜びを備えてくださっているのです。それは、まことのぶどうの木に連なる私どもが、主の愛を受けて、その愛によって互いに生きていくことです。その神の愛の道に、主イエスがまず献身してくださいました。

 13節で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と主イエスが語りかけられていますが、これは明らかに主イエス御自身がなさったこと、主の十字架のことです。しかも、罪人のために命を捨てるとは言われずに、友のために、と言われます。友とは主イエスを信じる者たちのこと、さらには主の教会のことです。主イエスは私ども教会を、キリストの友として愛してくださっているのです。友は、互いを支え合うのが通常です。私どもを主が友として愛して、私どもを支えるだけではなく、私どもによって主の恵みを表すように、用いてくださる、それは私どもの働きを必要としてくださるのです。もったいない恵みです。ぶどうの木が枝によっても生きるように、私どもを必要としてくださるのは、かけがえのないことで、主にある大きな喜びがあります。

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」との御言葉で思い起こす、主イエスとペトロの出来事があります。それは復活なさったとき、主イエスはペトロにもう一度弟子として召されて「わたしを愛しているか」(21:15)と言われました。その愛しているか、はアガベ―です。しかしペトロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とフィレオ―という言葉で返しています。フィレオ―は友情の愛と通常理解されます。これは、神の愛までは届かない、友情の愛でペトロが愛すると言ったのでしょうか。決してそうではないので、ペトロも主イエスも、今日の箇所の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という御言葉を思い起こしていたはずです。ですから、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という意味で、フィレオ―を使っていたことが、主イエスに届いたのでしょう。主イエスもまた、ペトロに、フィレオ―を用いて、「わたしを愛しているか」(17)と問われたのです。実際ペトロは、殉教の死を主イエスにささげることを、主イエスが語っておられます。(19)ペトロは殉教の死をささげましたが、実際に殉教することだけが献身ではなく、主のために友として主イエスを愛して、このお方のために生きようとすることが献身ではないか。

 主イエスは「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われましたが、友としての献身に生きる私どもから、主は何も奪おうとはなさらない、むしろ、与えつくそうと支えてくださるのです。祈祷会でイザヤ書を学んでいますが、先週の40章は異国の地で捕囚に苦しみ、諦めて疲れ切ってしまう民に、イザヤが主の慰めと励ましを与えています。31節に「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」とあります。鷲が翼を張って上る姿が、主にある献身の姿として思い浮かびます。鷲はバタバタと羽ばたいて上るのではなくて、主の霊である、主の風に身を任せるようにして翼を張ります。私どもも、すでに働いてくださっている聖霊の風に身を任せて翼を張ることができるのではないでしょうか。

 身を任せる私どもに、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(16)と言ってくださいます。これは恵みの御言葉で、ここにきていない人は選ばれなかったというようなことでは決してないのです。私のような者が集えるのだから、あなたはなおさら来ることができる、と招くことができるのです。

 不思議に、ノアの箱舟を思い起こしました。ノアの時代は、ノアの家族だけが洪水から救われた出来事が記されています。しかし、そのことはそこからすべての民に広がる救いが指し示されているのです。旧約の民がまず選ばれて主なる神を知りましたが、そこから私どもを含むすべての民への恵みの広がりが始まったことと同じです。私どももまた、主に招かれてここにいますが、ここから主は、すべての民へと広がる恵みと喜びの働きを始めてくださっているのです。

 ノアの箱舟の話をCSでしたときに、ライオンと羊が同じ船にいて大丈夫だったのかと話しました。主なる神が平和をもって支えておられたので、羊とライオンが共にいることができたはずです。それは、やがての救いの完成をも指し示しているのです。子どもたちに話しながら、ノアの箱舟の大きさに興味がわきました。箱舟は3階建てなので白鷺教会と同じです。その長さや幅はずいぶん違うのですが、高さが30アンマと聞いて、もしかしたらと思いました。1アンマは、人の肘から指先までで約45センチです。その30倍ですから13.5メートルです。石川長老に聞きましたが、白鷺教会礼拝堂は、地上から屋根頂上まで12.88メートルだそうです。少し違うようですが、当時は物差しがなかったので、誤差があることを考えると、ほぼ13メートルとすれば、高さがほぼ同じです。ノアの箱舟から祝福が始まったように、この礼拝堂から、主が恵みと喜びの祝福を始めてくださる、大切なしるしをいただいているのです。

 礼拝堂を舟と呼ぶ習慣がキリスト教会にありますが、その舟の船長はもちろん主イエス・キリストですが、主はその船長の友として、私どもを愛して、必要としてくださることを信じて共に、教会というキリストの舟を動かしていきましょう。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言ってくださる主イエスを愛して、キリストの友として感謝して、主と共に、仲間と共に生きていきましょう。



 
 
 

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