2026年10月18日(日)
【聖霊降臨節 第22主日】
礼拝説教 「真理の霊」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 15:18-27
<讃美歌>
(21)26,6,204,347,64,27
ヨハネによる福音書の中に、ずっと響いている言葉があります。それは、神の愛、アガペーという言葉です。神の愛は、無償の愛であり、けっして滅びない愛です。15章の12節には「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とあります。この神の愛に生きる掟は、今日の箇所にも響いています。
主イエスの愛の掟を受けて、この箇所には「憎む」という言葉が、何度も出てきます。ヨハネによる福音書全体で12回記されているうちの7回がこの個所にあります。その一つとして18節で主イエスは、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」と言われました。この御言葉は、神の愛とつながっているとすぐに分かるでしょうか。
愛の反対のように、憎しみが語られているように感じられるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか。主イエスは、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と言われましたが、この箇所で最後まで、どう対処するかは、語っておられません。その意味では、前の箇所から続けて聞かないといけない、切り離せないのです。
先ほど、ヨハネによる福音書の中に、ずっと響いている言葉があり、それは、神の愛、アガペーという言葉だと言いました。今日の箇所にも、神の愛は響いています。そして「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とある、この神の愛に生きる掟は、この箇所にも響いています。
「世はあなたがたを憎むのである」(19)と言われた主イエスはまた、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われましたが、「互いに」というのは、どこまででしょうか。それはヨハネによる福音書全体からすると、世を愛された主イエスと共に、世を含めて「互いに」と理解できるのです。「世はあなたがたを憎むのである」と言われた「世」の人々は横において、教会の仲間の自分たちだけで完結して「互いに愛し合いなさい」と言われたのではないはずです。それは「わたしがあなたがたを愛したように」という御言葉と共に、主イエスが世を愛されたことをヨハネによる福音書が告げているからです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:16-17)この御言葉は、ヨハネによる福音書全体に響き渡っていますが、主イエスが御自身とその弟子たちを憎む世を愛して、世が救われることを願っておられるなら、この箇所で、世が自分たちを憎むことを悲しんでおられる、その悲しみと嘆きを聞き取るべきではないでしょうか。
ヨハネによる福音書には、「憎む」という言葉が12回出てくる中で、7回がこの箇所にあると言いました。しかし、「敵」という言葉は、ヨハネによる福音書には一度も出て来ません。そのことをある神学者が指摘しているのを読んだときに、はっとしました。それは、私どもは憎まれると、それに対抗して相手を、敵として憎しみ返したり、恨んだりしてしまう、その罪を照らされる思いがしたからです。憎しみや恨みに生きる罪を照らし出すように、主イエスは愛に生きてくださいました。御自身を憎む世を裁くためではなく、世が救われるために、命をささげてくださったのです。
その神の愛の道に、ヨハネの教会も、初代教会も生きていきました。それは迫害に次ぐ迫害の時代を、祈りをもって、神の愛に生きぬいていったのです。ローマ帝国によるキリスト者の迫害は激しいものでしたが、90年から110年頃、激しさを増す迫害のさなかに、このヨハネによる福音書が書かれて回覧されていました。そのときに、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」と言われた主イエスの御言葉は慰めの御言葉となったはずです。主イエスが受けられたお苦しみを、自分たちも垣間見ていく幸いを知ったからです。彼らは決して武器を持って戦うことをしなかった、憎しみに憎しみ返して、呪いを祈ることはしなかったはずです。
「敵」という言葉は、ヨハネによる福音書には出てこないと言いました。しかしヨハネの教会の者たちは、主イエスが「敵」について語っておられる御言葉を知っていたでしょう。マタイによる福音書5章43節以下です。主イエスは言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」これは調べてみても、同じ言葉が聖書にあるわけではありません。前半の「隣人を愛し」は、たとえば、レビ記19章18節に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。ただ、「敵を憎め」というのは、当時の人々のことわざだと言われます。神の戒めとことわざが結びついているとするなら、神の戒めを無にしてしまうことで、悲しむべきことです。主イエスは語りかけられました。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
この御言葉に初代教会は生きぬきました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という御言葉と共に、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟に生きたのです。世界史をご存じの方は、ヨハネによる福音書が書かれた約200年後に、313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教会を公認しました。迫害の嵐が静まったのです。それは、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われた御言葉が実を結んだことです。
祈祷会でイザヤ書を学んでしますが、バビロン帝国に捕囚の民となった時代に、主なる神は預言者イザヤを通して語られました。イザヤ書41章10節「わたしの救いの右の手であなたを支える。」この救いと訳されている言葉は、ツァディークということばで、義と通常訳されます、しかし、勝利の右の手とも訳すことができます。神の義は、憎しみに対して、救い、勝利をもたらす、それは私どもを罪を照らして滅ぼすのではなく、そこに勝利と救いをもたらすのです。神の義は、詩編では神の恵みのみわざとも訳されますが、神の義は、罪を照らして裁くことに終らず、キリストの救いのみわざを生み出したのです。ですから、神の義は神の愛とまったく一つです。
先週、教会の仲間を訪問しました。Kさんをご家族と一緒に療養病棟にお見舞いしたとき、看護師長さんが来られて様子を伝えてくださいました。そのとき、この方はクリスチャンですか、と言われて家族の方が、はいそうです、と答えておられた。おそらく家族の方の訪問のときに教会からのカードを手渡したり、讃美歌を歌うこともあると聞いたので、わかったのでしょう。私もこの方の牧師ですと申しますと、その看護師長さんがとても喜ばれて、牧師さんはこんなこともしてくださるんですか、と訪問を喜んで、まるで自分の家族への訪問のように喜んでくださった。
そこにあったのは、もちろん憎しみではなく、喜びです。とてもうれしい経験です。主イエスは「世はあなたがたを憎むのである」と言われましたが、いつも憎まれていなければいけないわけでは無いのです。
しかし忘れてならないのは、神の愛は世に属していないことです。私どもが主イエスの愛に生きようとするときに、その愛の源は私どもの内には無く、主なる神にあることを忘れてはならないのです。それは、真理の霊である聖霊が、主イエスの御言葉と共に働いて、恵みのみわざをなさり、私どもに神の愛で動かしてくださることを信じていきましょう。真理の霊が、御言葉と共に、救いの右の手のように働いてくださることを信じていきましょう。





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