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2025年9月7日(日)

聖霊降臨節 第14主日


礼拝説教「労苦の実り」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 4:27-42


<讃美歌>

(21)26,14,210,516,64,28

 

  「ちょうどそのとき」(27)とあります。それは、主イエスが一人の女性と話をされていた「ちょうどそのとき」です。どんなことを語りかけられたかというと、その女性が「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」(25)と言ったことに対して「それは、あなたと話しているこのわたしである」(26)とご自身がキリストであると宣言されたことです。

 「ちょうどそのとき」弟子たちがシカルの町への買い物から帰ってきたのですが、おそらくは大切な主イエスの救い主としての語りかけをはっきりと聞き取ることはできなかったでしょう。なぜここに書かれているかは、女性が町へ行って、主イエスのことを、その会話を漏らさず語ったからでしょうし、その後二日間も町に滞在されて主イエスが話される御言葉を弟子たちも聞いて、女性とのやり取りと同じ御言葉を何度も聞くことになったからでしょう。

 この個所は、シカルの町に教会が生まれたと言ってもいいのです。私どもも、イエスがキリストであると信じる者たちの群れ、神の家族です。主イエスが私どもと出会ってくださったから、このわたしがキリスト、救い主であって、あなたを救うことができる、霊と真理とをもって礼拝(24)する恵みに生かすことができると今もなお導いてくださるから、ここに礼拝をささげることができるのです。「霊と真理とをもって礼拝」をささげることは、神様の霊の導きと助けによって礼拝する、また主の真理の御言葉によって魂に御言葉の養いをいただく礼拝です。主の導きによる礼拝は、主の恵みによる導きです。主の恵みに思いを深めましょう。

 先週、詩編の学びを再開しました。8月は長老たちが奨励をしてくださいましたので約一か月ぶりです。143編をじっくりと味わいましたが、そこにこのような告白があります。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し

 御手の業(わざ)を思いめぐらします。」(5)

説明の必要がない言葉ですが、詩編の信仰者が恵みをひとつひとつ数えているのです。ある方が、恵みをひとつひとつ数えていると、つらかったことや思い通りにいかなかった苦難よりもはるかに多くて、本当に感謝な思いを与えられています、と告白されました。主イエスと出会った女性も

「わたしはいにしえの日々を思い起こし あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し

 御手の業(わざ)を思いめぐらします」と、生涯にわたって、主イエスとの出会い、その御言葉を感謝して生きていったことでしょう。

 ひとりの女性は、「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。」(28)とあります。人目を避けて昼間に、わざわざ町から1.5キロも離れている井戸に水を汲みに来ていた人とは思えない姿があります。神の霊に導かれているのです。さきほどお話しした詩編143編にも、

「恵み深いあなたの霊によって安らかな地に導いてください。」(10)とあります。「あなたの霊」とは「神の霊」のことです。「霊」と訳されている言葉は、ルーアッハ(ヘブライ語)で息という意味があります。命の息を吹き込まれたように、女性は言いました。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(29)「わたしが行ったことすべて」とは、彼女にとって隠したいことです。これまで5人の夫をもち、今一緒にいる人は夫ではないことです。自分が受け入れられ、恵みに導かれていることをこの女性は実感したのでしょう。神へと向き直っていくことの恵みをこの女性は経験しています。

 神へと向き直っていくことは、神の義に照らし出されて裁かれることです。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16)と主イエスが言われたことは、神の義の御言葉です。しかし、神の義は、神の恵みの御業(みわざ)とまったく一つです。143編の詩編でも神の「義」が、神の「恵みの御業」(1)と訳されています。礼拝において主の御言葉に照らされることは、神の義の御言葉によって裁かれることですが、それはまた、恵みの御業にあずかることでもあるのです。

 町の人々は二日間主イエスが滞在されて語りかけられたとき、ひとりの女性同様に照らし出されて神の義に打たれたのではないかと思います。しかしそのことは恵みでもありました。神へと向き直る幸いを、神の愛を肌身で感じて信仰へと導かれたからです。人々は女性に言いました。それは信仰の告白です。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちが自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(42)この告白は、ヨハネの教会の告白でもあったのではないでしょうか。私どもも、「わたしたちが自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と告白する幸いに生きることができるのです。

 弟子たちにも主イエスは語りかけられました。27節には「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。」とあります。なぜ驚いたのかは、当時の偏見があったからです。律法の教師が女性に直接に人々の前で語りかけることはなかった。それは、女性への蔑視、差別の考えがありましたが、弟子たちもそこから自由になっていなかったようです。しかし、主イエス自らふさわしさを、神の御心を示して弟子たちを照らされたのです。ご自分の行動によって示していかれた。それは直接戒めるのとは別のやり方でしょう。私どもも、主イエスに出会い続けることによって、その行いを知る続けることによって、差別や偏見から自由にされるのではないでしょうか。

 主イエスは弟子たちに、行いで示されると共に、御言葉によって直接に語りかけられました。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(32)と言われたのです。主イエスが解き明かされています。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣(つか)わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(34)「成し遂げることである」と聞くと、ある有名な神学者は十字架上での主イエス・キリストの御言葉を想いおこしています。十字架上で息を引き取られたときに、「成し遂げられた」(19:30)と言われた御言葉です。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣(つか)わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と語りかけられたときに、すでに十字架の上で私どもに代わって神の裁きをその身に受け、すべての者が救い主を信じて赦しを受け、救いにあずかる道が開かれることを見据え、覚悟しておられたのです。

 主イエスが「他の人が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(38)と言われました。自分たちの功績とは決して言えない実りとは何でしょうか。神の恵みによる救いを受けることは、まさにそうではないでしょうか。主イエス・キリストの労苦によって、そのお苦しみ、尊い犠牲によって、教会はその恵みの救いの実りをいただき続けているのです。また、教会の歴史の中で、多くの先達たちによってまかれたものの実りを私どもは受け取って、ここに礼拝をささげているのではないでしょうか。そして、私どもも結果を主にゆだねて、主の恵みの御言葉をまき続けていきましょう。教会に恵みの実り、御言葉の実りを与えてくださる主を信じていきましょう。

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