2025年10月19日(日)
- shirasagichurch
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【聖霊降臨節 第20主日】
礼拝説教 「祈りの力」
山元 克之 牧師(青山学院高等部)
<聖書>
マタイによる福音書 15章21-28節
<讃美歌>
(21)26,12,56,497,65-1,28
本日与えられた御言葉には「カナンの女」と呼ばれる女性が登場いたします。彼女には子供がいたようです。その子が病気を患っていたためにこの女性は苦しんでいた。母親の子を思う気持ちの大きさを思わされます。ナザレのイエスという人が、随分とすごい、癒しをなさるそうだといったような噂を、どこかで聞いたのでしょう。その噂話を頼りに、この日この女性はやってくるのです。
この女性の姿に祈りの姿を見たいと思うのです。どれだけ願っても聞かれない、どれだけ祈っても通じない。まるで神様から無視されているようにも感じる。私たちの誰もが経験したことのある、祈りが聞かれていないと思えるような状況を今この女性は、主イエスとのやり取りの中で経験しているのです。それでも祈りの力を信じ祈り続ける。徹底的に祈る。そのことを今日の女性の姿から学びたいと思います。
しかしここで注意しなくてはならない事は、祈り続ければ、自分の思い通りになると言うように今日の御言葉を、読むことは、本来この御言葉の伝えるところと違うということです。確かに、女性は、娘を治して欲しいと主イエスに跪き懇願しました。その結果、娘の病気は癒された。聖書はその事を書いています。しかし、これが今日の御言葉の中心ではない、私たちに伝えている事ではないと思うのです。この女性は主イエスとのやり取りの中で徐々に変えられていっています。ある人は、この女の熱心な祈りに圧倒されて主イエスは折れて願いを聞かれたと説明します。果たしでそうでしょうか。むしろ変わったのは主イエスではなく、女ではないでしょうか。自分が根本から変わる。変えられる。娘の病の癒し以上の奇跡がここにはあります。
私たちが祈る時、何とかして神様の御心を変えようとしてはいないかと思わされます。あるいは自分が変わる事を、変えられる事を恐れて、環境が変わること、周りの人が変わることを祈っているのではないかと思わされるのです。

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