2025年10月12日(日)神学校日
- shirasagichurch
- 3 時間前
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【聖霊降臨節 第19主日】
礼拝説教 「叫び続ける願い」
𠮷岡 治彦 神学生
<聖書>
ヨエル書 4章16節
マルコによる福音書 10章46-52節
<讃美歌>
(21)26,9,51,510,65-1,28
***************** 目次 ********************
1.盲人バルティマイが主イエスに出会う
2.盲人バルティマイの叫び
3.イエスの歩みに従う
4.主イエスが叫んでくださる
5.私たち教会の小さな叫びを、招いてくださる神
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1.盲人バルティマイが主イエスに出会う
本日の聖書の箇所、マルコによる福音書10章46から52節は、盲人のバルティマイが、主イエスと出会います。イエスとの出会いによって、生活が大きく変わっていく、そして、生活の変化を越えた永遠の命への道へと歩みだす物語であります。
イエスと弟子たちの一行は、エルサレムへ上る途上、エリコの町につきました。イエスと弟子の一行がエリコに来た時、過越しの祭りのための巡礼の人たちが多くいました。巡礼者だけではなく、イエスの噂を聞いて集まってきた人々たちも、多数、エリコに来て群衆となっていました。
その中、イエスと弟子たちは、エリコで、一晩過ごした後、エルサレムへ向かため、エリコの町を出発します。町を出たすぐその道端には、物乞いがおりました。その名前が聖書に記されております。ティマイの子で、バルティマイという盲人です。物乞いにとって、町の出口にいれば、信仰の深い巡礼者がエルサレムへ向かう際に、良く施しをしてくださる、その思いをもって座っているものが、多くいました。また、多くの人からの、さまざまな情報の交わりもあったからでしょうか、盲目のバルティマイは、イエスがどのようなお方であるか、知っていたようです。
2.盲人バルティマイの叫び
バルティマイは、目が見えなくとも、群衆の群がりに、気づき、そこにイエスがおられるとわかり、イエスに叫びました。イエスへの願いを、叫びはじめました。
「ダビデの子よ、私を憐れんでください」。多くの群衆は、その叫びを黙らせようとしましたが、バルティマイは叫び続けました。「ダビデの子よ、私を憐れんでください」、ますます、叫びました。
バルティマイは盲目ではあり、イエスのお顔は見えなかったでしょう。しかし、イエスがおられること、イエスが「ダビデの子」であることは、良くわかっていた。「ダビデの子」の呼び方には、旧約の預言する救い主であるという意味を含んでいます。バルティマイのイエスの救い主としての、信頼が、強くあると言わねばなりません。
しかし、この叫び、叫び続けていることを人々は叱り、黙らせようとしました。群衆にとって、また、弟子たち一行にとっても、とても、不適切なことであったのでしょう、うるさいという思いもあったでしょう。「あなたが、イエスを、ダビデの子というなんて、なにごとか」と、弟子たちや群衆からの上から目線の圧力があったのでしょうか。でも、バルティマイは叫び、続けるのであります。
49節、その叫びを聞いたイエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と弟子たちに言われました。多くの群衆や弟子たちは、バルティマイの叫びを叱り、咎め、黙らせようとしているのに、イエスは今、確固たるあゆみでエルサレムへ向かっていた途中にも関わらず、バルティマイを招くために、時間を割きました。
イエスは、立ち止まって、バルティマイの願いを受け取りました。そして、イエスはバルティマイの叫びとなった、熱心な願いに、立ち止まって、受け止め、「あの人を呼んで来なさい」、と言いました。「立ち止まって」語の聖書の原語では(ギリシャ語で、「スタス」)、「立ち上がる」という意味もあります。イエスは、十字架への道のエルサレムへの歩みのなかで、さらに、「その十字架の思いを、立ち上がらせるように、バルティマイの願いを受け取った」、イエスのその積極的な受けとめを、覚えたいと思います。
弟子たちは、イエスからの呼びかけを、バルティマイに伝えました。
49節のb 「安心しないさい、立ちなさい、お呼びだ」と。この「安心しなさい」は、新改訳聖書では、「心配しないで」と訳されています。聖書の原語(ギリシャ語では、「サルセイ」)では、「元気をだしなさい」との意味もあります。「元気をだしなさい、心配しないで、さあ、立ち上がりなさい、」と、バルティマイは呼ばれました。
この言葉を、弟子たちがバルティマイに宣べました。イエスの弟子たちのこの言葉「安心しなさい」は、現代の私たち、教会の言葉としても与え得られています。「安心しなさい、元気を出しなさい、さあ、立ち上がりなさい、あなたを呼んでおられます。」、教会もこの伝道への励ましの言葉として受け止め、困難に在るものと、共に聞き歩みたいものであります。
バルティマイは、イエスと出会い、イエスの元へ立ち上がることができました。これまでの叫び、益々の、叫び続ける願いを、主イエスが立ち止まって、聞き入れて、答えてくださいました。その喜びようは、どうでしょう。
バルティマイの主イエスへの信頼は、強いものがあります。群衆からは、押さえつけようとする圧力がありました。さらに、その中には、イエスの弟子たちの押さえつけもありました。弟子たちは、イエスの赦しを理解できない、バルティマイへの不理解がありました。にもかかわらず、バルティマイは、ますます、叫び続けるほどの、強い、信頼でイエスを、心の目で、強く見つめ、信頼していました。その喜びをもって立ち寄る真実さがありました。その信頼に、その誠実さは、今の、私たちも倣うものでありたいのです。
3.イエスの歩みに従う
本日の聖書の箇所では、イエスと弟子たちは、エルサレム、十字架の死への道、死に打ち勝つ、十字架への道、エルサレムへ再び、町から歩み出す場面であります。
51節。イエスは、「何をしてほしのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」といった。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
盲人は、すぐ見えるようになりました。立ち上がりました。バルティマイの目が癒され、初めて見たものはなんであったでしょうか。そう、イエスです。そのイエスは、バルティマイに肉体の目の回復や、健康の回復とともに、その先にある重要なことを与えました。
立ち上がったバルティマイはどこに行ったのでしょうか。長い間、会っていない家族に会いに行ったのでしょうか。故郷に帰ったのでしょうか。目が見えるようになったバルティマイは、なお道を進まれるイエスに従いました。
バルティマイは、そのイエスの歩み、十字架への道に従うものとして共についていくものとされたのです。
バルティマイは、イエスに出会い、信仰へと引き上げてもらい、自分のすべてを捨て、そして、イエスの歩みに従いました。イエスのエルサレムの歩みは、肉としての罪と命に打ち勝つ、十字架へと向かっていきます。バルティマイも自分の十字架を背負って、新しい永遠に生きる命への道に従ったのです。バルティマイのイエスに従うものとなった召命であります。バルティマイのこころと魂の叫びは、イエスの永遠の命へ、呼び招きいれ、与えられました。見えないバルティマイに、最も大切なことを見る目が、イエスによって与えられたのです。旧約聖書が予言している救い主であることを見ることが与えられたのです。
4.主イエスが叫んでくださる
本日与えられましたもう2か所目の聖書の箇所、旧約聖書1426頁、ヨエル書4章16節。「主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる。天も地も震える。しかし、主はその民の避けどころ。イスラエルの人々の砦」
主なる神はシオンから吠えたけり、エルサレムから声をとどろかされる、この箇所の、「ほえたけり」は聖書の原語((70人訳ギリシャ語)では、バルティマイの“叫ぶ”と同じ語がつかわれています。
主なる神の吠えたけりは、私たちの礼拝における、み言葉でもあります。礼拝のみ言葉でイエスが十字架で叫んでくださいました、イエスの十字架上での叫びです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。この叫びによって、私たちに救いが与えられました。今、この私たちの礼拝での讃美と祈りが、与えられました。主なる神の吠えたけり、イエスの叫びは、天や地にも響き渡ります。天や地をも超えて、天や地をも響き渡っています。その響きが私たちにも届いています。そして、私たちを、安心と信頼への避けどころへと招いてくださっているのであります。わたしたちの叫ぶような讃美、祈りは教会の祈りです。教会の祈りは、旧約聖書においては、エルサレムからの叫びでも、あるのです。
5.私たち教会の小さな叫びを、招いてくださる神
盲人、バルティマイの叫び、信仰は、天と地をも響き渡る祈りです。その祈りは、主イエスによって、呼ばれて結ばれたのでした。この応答は礼拝そのものです。バルティマイの叫び、イエスの応答、これは礼拝です。バルティマイの礼拝の姿と言えるのではないでしょうか。この礼拝は、今の私たちにも、私たちの教会にも、与えられていますことを覚えたいと思います。
私たちの生活の中にも、さまざまな病や苦難があります。しかし、主イエスが、私たちを呼んでおられます。そこは、教会です。教会へと呼んでおられるのです。礼拝では、私たちの嘆き苦しみの叫ぶような魂の賛美をします。叫ぶような願いで祈りがささげられています。わたしたちは、弱くても、小さくても、つぶやきの多いものでもよい、私たちの小さな叫びを、イエスは招いておられます。辛いときや苦難にあっても、神様の招きに信頼し賛美と感謝によって、躍り上がるように歩むことができるのであります。
主イエスは、盲人バルティマイの病を癒やし、そして、魂を信仰へと引き上げてくださいました。バルティマイは十字架の道に従いました。私たちも、このイエスの呼びかけに信頼して、今日から始まる新しい週も、感謝し、讃美をもって、イエスの道に従ってまいりたいと思います。

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