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2025年10月26日(日)

【降誕前 第9主日】


礼拝説教 「命を得るために」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 5章31-40節


<讃美歌>

(21)26,2,210,505,65-1,28

 

  ヨハネによる福音書が書かれて、教会に回覧されていた当時、私どもと同じ状況がありました。それは、直接主イエスの御言葉を聞いたり、主イエス・キリストの復活に出会った人がいなくなっていたということです。

 ではどのようにして、当時の教会は主イエス・キリストを信仰を継承していったのでしょうか。

 それは、回覧されてきた聖書の御言葉を共に聞きながら、礼拝をささげる中で信仰を与えられていったのです。そのことは、私どもと基本的には同じではないでしょうか。私どもは幸いなことに、印刷され製本された聖書を礼拝において共に聞き、主イエス・キリストを救い主と信じる人々と共に礼拝をささげる中で信仰を継承しています。

 主イエスも、聖書について語りかけておられます。39節「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」主イエスが語りかけておられる相手は、当時のユダヤ人たち、それも主イエスに敵対する指導者たちです。安息日に38年も病気であった人を癒したことで批判されたとき、主イエスは「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされた」(18)のです。そしてそのために、ユダヤ人たちが、「ますますイエスを殺そうとねらうようになった」とき、語りかけられました。立ちどまって考えてみると、命をねらっている相手に対して、私どもは主イエスのように、真実を語りかけることができるでしょうか。主イエスは神御自身であって、神の愛そのものとして、もっとも大切な、代々の教会が受け継いできた御言葉を、敵をも愛する愛で語りかけておられるのです。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」と言われた主イエスはまた続けて「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(40)と言われました。人間の側から、その持てるものによって聖書を研究しても、それで神の命に到達できるわけではないというのです。信仰を求めずに、聖書を研究対象として読んでいる人々は大勢います。

では礼拝で、命を得るために主イエスのもとに来ることは、研究対象として聖書を読むこととどう違うのでしょうか。それは、人間の側のことではなくて、礼拝において、神様の側から近づいてくださることです。神御自身である聖霊の働きが、礼拝において聖書の御言葉と共にあるということです。主イエスが、与えようとされる命は、主イエスの持っておられる命でもあります。永遠の命は、私どものもっている肉体の命がずっと続くことではなく、神の命とつながっていくことです。主イエス・キリストが与えてくださる命を、私どもはどのように理解したらいいのでしょうか。

主イエスは、十字架を目前にして最後の晩餐を弟子たちと共にされたとき、このように語りかけられました。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(12・13)「真理の霊」とは、神御自身である聖霊のことです。私どもが「命を得るために」主イエスのもとに来る礼拝において経験していることは、主イエスが約束してくださったことです。礼拝で必ず聖書の御言葉が語りかけられますが、そのときに真理の霊である聖霊が働いてくださるのです。「すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」

「あなたがたを導いて」とあるように、御言葉に伴う聖霊のお働きは、教会の礼拝においてなされてきました。「ヨハネの証し」(36)とありますが、洗礼者ヨハネが指し示したのは、主イエス・キリストです。教会が信じて来たものも、主イエス・キリストです。ですから、信仰生活にどうしても必要なことは、教会と聖書であって、そこに御言葉に伴う聖霊のお働きがあって今に至っているのです。

ヨハネによる福音書の書かれた当時の教会もそうですが、私どもも、人間の群れで、そこに弱さと欠けを持っています。罪を赦された罪人の群れと表現する人もいますが、その通りではないでしょうか。立派な者たちの集まりと自覚したり、互いの欠けを指摘するようなことに終始してしまうと、教会は命を失っていくのではないでしょうか。ただ、人の弱さゆえにまた、立派な者たちの集まりと自覚したり、互いの欠けを指摘するようなことに終始してしまうことがあることを知る必要があります。教会は、私どもの側に命があるのではなくて、神の確かな命とつながっているところに教会の命があることを知り続ける必要があります。

食事は、昨日食べたから今日食べなくていいとは思わないでしょう。実際にお腹がすきますから、毎日新しく食べ続けることをしているのです。しかし、人はその弱さゆえに、神からの命を注ぎ続けていただかなくては生きていけないことを、たえず教えていただく必要があるのです。神からの命を与えられる、魂の食物は、御言葉の糧ではないでしょうか。主イエスは、命を得るためにわたしのもとに来るようにと招いてくださっています。魂がうえ渇くように神のもとへ行きたいと思えるときはいいのですが、神への求めを失っていく弱さがあるのではないでしょうか。食欲がわかないときは体の危険信号ですが、祈りたいと思わない、神への求めがわいてこない弱さを自覚する必要があります。そのような私どもの弱さ、罪深さをすべてご存じである主なる神が導いてくださることは、慰めであり、心強いことです。絶えず、主なる神に確かさがあるのです。

神の確かさは、その救いの確かさです。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」「真理の霊」とは聖霊のことです。教会が聖霊によって悟ってきたのは、主イエス・キリストの十字架の死と復活の救いです。

それは、今日の箇所にあります、主イエスが成し遂げてくださった業(わざ)であり、それを父なる神が証してくださることです。「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」(37)ことは、具体的には、主イエスを死から復活させられたことがその証しの中心にあることは言うまでもありません。そして「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業(わざ)」とは、主イエス・キリストが十字架に命をささげて、私どもに代わって罪の裁きを受けてくださったことです。

最初に、立ちどまって考えてみると、命をねらっている相手に対して、私どもは主イエスのように、真実を語りかけることはできるでしょうかと言いました。主イエスは神御自身であって、神の愛そのものとして、もっとも大切な、代々の教会が受け継いできた御言葉を、敵をも愛する愛で語りかけてくださるのです。命をねらう者にさえ愛をもって語りかけられる主は、近づく私どもを必ず顧みてくださいます。弱さを抱いていても、罪を悔いるときにも、いかなるときにも、命を得るためにわたしのもとに来るようにと招いてくださるのです。主イエスの命とつながるようにしてくださるのです。主イエスは、御言葉に伴う聖霊の働きによって、御自身の命とつながるようにしてくださる。それは、御言葉の命の糧に生かしてくださることです。

ヨハネによる福音書の書かれた当時の教会は、迫害に次ぐ迫害の時代を生きぬいていました。今日礼拝を共にしたことが地上での最後の礼拝かもしれないといつも覚悟していたのではないか。しかし、神様から来る尽きない希望と喜びに支えられて、神の命の確かさに生きていたのです。それは、主なる神から来る、御言葉の命の確かさです。主イエス・キリストは、命を得るようにと招いてくださいます。礼拝において、魂の糧である御言葉を共にいただいて、主なる神からの命に生かされていきましょう。


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