2025年9月28日(日)
- shirasagichurch
- 9月28日
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【聖霊降臨節 第17主日】
礼拝説教 「主は働かれる」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 5:1-18
<讃美歌>
(21)26,1,208,492,64,28
詩編の学びを祈祷会では続けていて、先週146編を学びました。146編を含めてあと5つの詩編で150編を学び終えることになります。最後の5つの詩編はすべて、ハレルヤで始まってハレルヤで閉じており、このような書き方を囲い込とか挟み込みと呼んでいます。ハレルヤとは主をたたえよという意味ですから、歌われている詩編の内容がすべて、主をたたえる賛美、祈りとしてささげられているということです。146編の2節に
「命のある限り、わたしは主を賛美し
長らえる限り
わたしの神にほめ歌をうたおう。」とあります。
「命のある限り」とは「わたしの全生涯で」という言葉ですから、私どももその全生涯が、感謝と賛美で囲まれるようにして過ごすことを願います。そこへと導いてくださるのは主なる神であるので、詩人の信仰者は「命のある限り」、「わたしの全生涯で」とうたっているのです。
その詩編146編の学びで、「パン」という言葉が出てきました。「とこしえにまことを守られる主」(6)のお働きとして、「飢えている人にパンをお与えになる」(7)とあります。実際に食物がない人のことだけではなくて、その魂が飢えかわいている人のことも言っているでしょう。その「パン」という言葉は、レヘムというヘブライ語ですがこんなことを話しました。12月にクリスマスを祝いますが、主イエスがお生まれになったベツレヘムは、ベートレヘムで、ベートは家という意味なので、パンの家という意味です。なぜパンの家と町の名前を付けたかはよく分かっていません。パンの家という町の名前からすると、豊かな町のようですが、調べますと、ミカ書5章1節に救い主誕生の預言が記されています。
「エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」
ベツレヘムを指して、「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」とありますから、むしろ、いとも小さな貧しい村里で主はお生まれになったと理解することができます。しかも、ヨハネによる福音書はこの5章に続く6章35節には「わたしが命のパンである」と主イエスが語りかけておられます。「命のパン」である主イエスがパンの家という意味のベツレヘムでお生まれになったのは不思議なつながりがあります。「飢えている人にパンをお与えになる」という詩編の言葉も、「わたしが命のパンである」と言われる主イエスによって成就していると理解することもできるのです。「わたしが命のパンである」と語りかけてくださる主の恵みが、すでにこの5章から始まっています。私どもに主なる神でしか与えることができない命、救いの命に満たそうと働きかけておられるからです。どのようにしてでしょうか。
与えられています箇所は、38年間も病気で苦しんでいたひとりの人が癒やされたことが記されています。8節で主イエスが「起き上がりなさい。床(とこ)を担いで歩きなさい。」と言われて、その人は良くなって歩きだしました。しかしこの人は、それが主イエスだとはすぐには知らずに過ごしているのです。あなたはどなたですか、とたずねることもなく、主を信じたという言葉もありません。ただ、いやされただけで終わっているようにも思えて、そこに「わたしが命のパンである」と言われる主イエスの恵みが見いだせないように感じるかもしれません。
さらに、14節で、主イエスが神殿の境内でその人に出会っておられます。おそらく主イエスの方から出会われたのでしょう。そのときに言われた言葉が、昔から理解に苦しんできた語りかけです。主イエスは言われました。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」なぜ理解に苦しんできたかは、「もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」という言葉が、因果応報に聞こえるからです。何か悪いことをしたらその罰を受けるというように聞こえます。確かに、人が犯した罪の責任は、その人が問われることであって、神様の責任ではないのです。人は神に裁かれるべきものを持っているのです。しかし因果応報という点では、ヨハネによる福音書の9章で主イエスは、はっきりと人間の不幸や病気と罪は関係ない、因果応報を否定しておられます。ではどのように理解したらいいのでしょうか。
ある神学者は、ここに人の罪がはっきりと語られていると言います。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」と主イエスから言われたこの人はどうしたでしょうか。主イエスを信じて弟子になったとは書かれていないのです。38年の病気ということは、当時の人々がどれぐらい生きたかを想像しますと、その生涯のほとんどともいえる長さです。そこから癒やされたのですから、主イエスにすべてを捨てて従ったかと言えばそうではなかった。「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた」(15)のです。「知らせた」という言葉は、実際には「密告した」ことに相当するとある神学者は指摘しています。当時の掟に反して安息日にいやされたことで批判されたこの人は、主イエスがいやしたからで、自分の責任ではないと、ある意味で、イエスを売り渡すように知らせたのです。とても残念で、後味の悪い箇所です。しかしそこに人の罪が明らかになっているのです。16節に、「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。」とあります。しかし、人の罪が明らかになるところで、主イエスもまたご自身を明らかにしておられます。
17節「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」この御言葉によって、「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。」(18)とあります。その理由について「イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」とあります。
安息日に主イエスが「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と言われたのは不思議な思いがします。安息日は元々、天地創造のときに、主なる神が七日目に休まれてその日を聖なる日とされたので、7日目を安息日として休んで、聖なる日、礼拝の日と定められたのです。その安息日、礼拝の日は、日々の営みを休んで礼拝をささげますが、考えてみますと私どもは礼拝をささげることによって安息を与えられていますが、何もしていないわけではないのです。主なる神もまた礼拝においてこそ働いておられるのであって、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」とは、安息日の礼拝への招きの言葉として聞くことができます。
最初に、「わたしが命のパンである」と語りかけてくださる主の恵みが、すでにこの5章から始まっていますと言いました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」とは、私どもに主なる神でしか与えることができない命、救いの命に満たそうと働きかけておられることです。
しかし先ほど、この箇所は後味が悪いと言いました。いやされたこの人がこのあとどうなったか、書かれていません。それは、聞く私どもはどう主に答えますか、と問われていることでしょう。
この当時、すべての人が主イエスのまわりで病気をいやされたわけではありません。ベトザダの池の周りにもおびただしい人がいたでしょう。ベトザダのベートは家、ザダは伝統的に「いつくしみ」と理解されてきましたから「いつくしみの家」です。しかし、我先にと池に飛び込んでいやされたようですから「いつくしみの家」とはほど遠い中身だったでしょう。長年取り残されたような人を、主イエスが「起き上がりなさい。床(とこ)を担いで歩きなさい。」といやされました。この箇所には残念ながらこの人の信仰の言葉はないかもしれません。しかし「起き上がりなさい。」との御言葉は、単なるいやしの言葉ではないのです。起き上がるという言葉は、「イエスが死者のなから復活されたとき」(2:22)とある「復活されたとき」と同じ言葉です。
ですから、「起き上がりなさい。」と主イエスが言われたとき、すでにこの人の罪のためにも裁きを受けることを深く心に刻んでおられたはずです。主が復活されたとき、弟子たちが主の復活を告げ知らせて「主は復活された」「主は起き上がられた」と聞いたとき、「起き上がりなさい」との御言葉を思い起こしたかもしれません。「わたしが命のパンである」「起き上がりなさい」との御言葉は、人の深い罪が明らかになるそこにおいてもなお響き、主は御言葉をもって働きかけてくださるのです。私どもを起き上がらせて、信仰へと導いてくださるのです。主の導きによって「命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限りわたしの神にほめ歌をうたおう」と主をたたえる喜びに生きていきましょう。

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