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2025年10月5日(日)

【聖霊降臨節 第18主日】


礼拝説教 「命へと移る」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 5:19-30


<讃美歌>

(21)26,15,207,376,81,65-1,28

 

  聖書の御言葉を聞くと、自分はどうだろうかとドキッとすることがあります。今日与えられています箇所はどうでしょうか。

 28節以下は、このような主イエスの御言葉を記しています。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくる。」

 ドキッとするのは、自分はどちらだろうかと思うからです。また、裁きを受けると聞くと、断罪されて神の御前から退けられ、永遠の裁きを受けるとすぐに思ってしまうからです。しかし、「悪を行った者は復活して裁きを受ける」ことに、何の希望もないとは語っていないのです。ほかにも語られている主イエスの御言葉を十分に聞く必要があります。聖書の御言葉は、切り取って一人歩きさせるととても危険です。あることについて語られていると、必ずと言っていいほどに、もう一方のことも語りかけられているのです。とくに今日の箇所はそうです。

 主イエスは、こうも言われています。23節「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。」主の御心がはっきりと示されています。「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるため」、「悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくる」とつなげて読むことはゆるされると思います。それほどに、主の御心は広く深いのではないでしょうか。

 そのように思う根拠はどこにあるのですか、と問われれば、それはほかの聖書の御言葉を思い起こします。ローマの信徒への手紙1章17節に「福音には、神の義が啓示されています」とあります。「神の義」は神の義なる正しさによって裁くことしか、私どもは考えないかもしれません。しかし、神の義は、そこに恵みの御業が働くのです。「ただ、キリスト・イエスの贖(あがな)いの業を通して、無償で義とされるのです」(3:24)とあるとおりです。新共同訳聖書詩編では、「義」という言葉は、「恵みの御業(みわざ)」と訳しています。神の義は、神の恵みの御業がそこに働くからです。

 「キリスト・イエスの贖(あがな)いの業」とありますが、それは悪を行った者の裁きを代わりに受けて裁かれてくださった、それによって主イエスを信じる者が赦されて義とされ、救われるためです。ですから、「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくる」と言われたときに、御自身の十字架の贖いを覚悟されていたのではないでしょうか。あるいは、ヨハネによる福音書を受け取った当時の初代教会は、十字架に贖いの業を成し遂げられ、復活された主イエス・キリストの御言葉としても聞いたのです。私どもも、十字架に贖いの業を成し遂げられ、復活された主イエス・キリストの御言葉として聞くときに、どんな厳しい御言葉も、神の義の御言葉として、希望を抱いて聞くことができるのではないでしょうか。

 25節「はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」「死んだ者」とは、肉体的に死んだ者のことだけではなく、神の命に生きいていない者のことでもあるのです。しかし、「その声を聞いた者は生きる」とあるのですから、その御言葉を恵みの御業の御言葉として聞くことができるのです。

 「はっきり言っておく」とは、原語では「アーメン、アーメン、言います」という言葉です。「アーメン」とはその通り、という意味ですが、とくに大切な真理の御言葉を語りかけておられます。

 24節にも「アーメン、アーメン」があります。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」文字通りに信じることができますが、「永遠の命」について質問されたら、どう答えるでしょうか。ヨハネによる福音書は、はっきりと永遠の命について語っています。

 主イエス・キリストが、最後の晩餐を終えて、祈られた祈りの中に、このように記しています。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17:3)

 「知る」というのは、単なる知識のことではなく、信じて、そのお方とつながって生きることです。その意味では、「唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」は、礼拝において私どもが、経験していることです。礼拝における主の恵みの御業は、そこに永遠の命があるということです。礼拝の恵みは、だれも終わりにできないし、いかなるものも、奪うことはできないのです。

 このあと、世界聖餐日として、世界中の教会とともに聖餐を祝います。主イエスが最後の晩餐で制定されたものです。食べる恵みの御業と言っていいと思いますが、パンとぶどうの杯をいただきます。主イエスの永遠の命と罪の許しを信じて、その恵みを食べるのです。信じて受け取らないと意味がありませんし、軽々しくいただくことはできませんから、代々の教会は洗礼を受けた者、信じて信仰を告白した者が聖餐にあずかってきました。神を畏れ敬う心を失うことがないように祈り願います。

 礼拝の恵みに、神の命があることを、礼拝の恵みの御業は、神の永遠の命へとつながっていく、命へと移っている御業であることを信じていきましょう。

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