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2025年9月21日(日)

聖霊降臨節 第16主日


礼拝説教 「キリストにみちびかれて」


伊藤 智 牧師 (横浜英和学院 学院宗教主任)

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 1:43-51


<讃美歌>

(21)26,10,459,531,64,28

               

 学校の教職員のために、初めてのキリスト教講座に呼ばれましてお話をさせていただきました。事前に担当の方から、キリスト教に全く触れたことのない教職員がいますので、よろしくお願いいします、と頼まれて、どんな話をしたらいいのか、考えました。毎日の日常生活から語っていこうと思いました。

キリスト教学校に入ってまず驚くのは、入学式の日から毎朝、礼拝で1日が始まるということです。生徒や先生たちが、礼拝堂やホールに集まり、前奏の音楽とともに始まり、賛美歌を歌い、聖書の話を聞く時間を持ちます。

あるいは、礼拝というのは、講壇から一方的な話を聞くよりも、もっとみんなで、どうしたら神を信じたかとか、どうやったら神を信じることができるのか、具体的な体験を聞いた方がいいのでは、あるいは、聖書をよく読んで、理解した方がいいんじゃないかなどの意見があります。

 

 わたしたちは、今、ヨハネによる福音書1章43〜51節を聞きました。聖書が語っていたことは、イエスさまが、私たち一人ひとりを見ておられた、ということでした。本日の説教題で言えば、キリストのまなざしにとらえられていたということが語られていたのです。

 

イエスさまは、ガリラヤに向かう途中、フィリポに出会い、「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。この言葉を正面から受け止めると、ある種の抵抗感が沸くのではないでしょうか。ところが、フィリポはただちに従い、ナタナエルに出会った。

 

 聖書には、フィリポは、アンデレとペトロの町ベトサイダの出身であった。とありました。初め、ただフィリポの出身について触れているだけなので読み飛ばそうと思ったのですが、よく読み込んでみると、わざわざ書かれているとも言えます。ベトサイダの出身とは、広く言えばガリラヤ地方出身とも言えます。

 

 フィリポは、ナタナエルに、それは、ナザレの人、ヨセフの子イエスであると伝えたのです。この後のナタナエルの答えから分かるように。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とても冷ややかに、受け流しています。ナタナエルは、ヨセフと同じ、ガリラヤ地方出身なので、前から知っていたのかもしれません。そして、自分と同じ地方のガリラヤという小さな田舎町ナザレから救い主が現れ出るなんて、あり得ないと思ったのです。

 

 フィリポがまず語った、モーセが律法に書き、預言者たちも書いている方に出会ったというのは、旧約聖書がしめしていた来るべき救い主に出会ったということなのです。旧約聖書をどう言い表そうかと思うのですが、わたしの務めている学校の年間主題聖句は、出エジプト記3:12神は、私たちと共におられる、そこで、神に仕える、礼拝をするというのです。神は、イスラエルの人々と一緒に歴史を歩いてきた。神は、人と共におられた、一緒に生活をしてきた。そして、その神の言葉が指示していた救い主に、フィリポは、出会った。そして、そこで礼拝がうまれたと言えると思います。神は、私たちと共に、歩まれていることをこのヨハネによる福音書をなぞりながら、読んでいきたいと思うのです。

 

今、この方が、来るべき救い主と言われても、どうしてそんなことが分かる?という疑問があると思います。それに対してフィリポは議論しようとはしなかった。ただ一言「来て、見なさい」と言いました。これはヨハネ福音書における信仰の重要な姿勢を示しています。来てみなさい、英語では、come and see原文に即していえば、来て、見て、分かると。そして、これは、たいへん大胆なことを言っています。

受け止め方によっては、もっと準備してから、聖書などを勉強して用意から、と思うところで、いきなり、来て、見なさいと言われる。

 

自分で行って、自分の目で見て、それで、最後は、自分で確かめてから決めたいと思うのが、現代人のよくある姿勢です。そして、誰もが「自分には、正しく判断できる力がある」と思っているところがあると思います。まさに、ナタナエルもそうでした。彼は自分の考えで、「イエスは救い主ではない」と判断したのです。でも、そんなナタナエルの姿は、まるで今を生きる私たちの姿と重なります。自分の知識や経験を基準にして、決めようとする――それは、多くの人がやっていることではないでしょうか。

 

けれども、そんなナタナエルが、最終的にはイエスさまを救い主として信じるようになるのです。自分の判断ではなく、イエスさまとの出会いを通して、生き方が変えられていくのです。

 

  そんなナタナエルがイエスさまのもとに来る。ところが、ナタナエルがイエスさまを見る前に、イエスさまが、見ておられる。そして、ナタナエルを見てこう言いました。「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。 ナタナエルのまこととは何でしょうか。わたしは、初め、こう思いました。ナタナエルは、イエスさまを疑っていた。だから、そういう意味では、まことの人ではない、もしそれで、自分は、まことだというなら、偽りものだと。そう考えた時に、ある人は、いやいやナタナエルは、自分の考えを素直に言っているから、まことの人だ、偽っていないと言いました。 おお、そういう見方があるな。

じゃあ、まことの人になるためには、どうしたらいいのか、疑ったらだめなのか、疑ってもその人は、まことの人だと言われるなら、疑ってもいいのか。わたしは、自分から誠の人になろうと考えていたら、ある人が、こんなことを教えてくれました。

ナタナエルは、わたしたちの代表。そして、その名前にさらに意味がある。ナタナエルとは、神が与えられた者 という意味があります。神が、イエスさまに与えられた者。それは、どのようなものだったかと言うと、イエスさまの前に、そのままに生きていただけなのです。そのナタナエルをイエスさまは受け入れたのです。これが、ナタナエルのまことだっていうのです。神さまは、疑いや偽るわたしたちをゆるさない、正してやると怒るのではなく、イエス・キリストに与えられた。イエスさまに委ねたのです。

 ナタナエルをはじめとするわたしたちが、知らなければならないことは、それは、キリストによって、わたしたちのまことを知るということです。

 

ナタナエルは、イエスさまの言葉に驚きます。「どうしてわたしを知っておられるのですか」。するとイエスは、「フィリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と言われます。ナタナエルは、聖書を読んだり、祈りに使われていた静かな場所にいた。それを、イエスさまは、見ておられたのです。 それは、礼拝の場所だと言えます。それが、いったいなんなのでしょうか。礼拝の場で、自分が、そのようにいつも見つめられていて、受け入れられているから何なのでしょうか。

これまでヨハネが書いた聖書の出来事を聞きつつ、キリストによって、このことを知ったら、きっとあなたは、変わるだろうと思われているのです。自分のそのままをこのように聖書を通して、知った時、私たちはこのままで、そのままでいいとは、思えなくなるはずだと思われているのです。

 

ナタナエルは驚き、すぐに「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と生きる基準が変わった。自己中心的な思いから、イエス・キリストに向かって信仰を告白しました。

 

イエスさまは、ナタナエルに言われました。「あなたは、いちじくの木の下にいるを見たと言われたから信じたのか、もっと大きなことを見るであろう。天が開け、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたは見るであろう」。これは旧約のヤコブの夢、すなわち天と地をつなぐはしごの幻と重なります。イエスこそ、神と人とをつなぐはしごそのものであり、私たちを天の御国へと導く方であるという宣言です。

今も主が、私たちを見ておられます。主が、「もっと大きなこと」を私たちに見せてくださるのです。それは、イエスさまの十字架の救いです。祈り、信じ、そして「来て、見なさい」という招きに応え、主の救いを見るものとならせてください。そこから、主に従う道、信仰が始まるのです。

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