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2025年9月14日(日)

聖霊降臨節 第15主日


礼拝説教 「信じて帰って行った」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 4:43-54


<讃美歌>

(21)26,20,205,394,64,28

 

  今日与えられています箇所を、ご一緒に黙想するような思いで味わっていきたいと願います。ご一緒に黙想するときには、手でなぞるようにして読んでいきます。そして、疑問に思ったことや心に響いた言葉を分かち合うのです。

 43節に「二日後、イエスはそこを出発して」とあります。すぐ前の箇所で、二日間サマリアの町シカルに滞在されて、町の人々に語りかけられました。そして41節にあるように「更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」のです。おそらくは、もっとこの町にいてほしいと願われながら、シカルの町を後にされたことでしょう。

 それに対して、「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤに行かれた。」に続く44節は、「イエス自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」と記しています。ガリラヤのナザレでお育ちになった主イエスが、故郷のガリラヤに行かれるときに、サマリア人々のように、「イエスの言葉を聞いて信じた」とならないことを暗示しているようです。

 そう思って続く45節を読みますと「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」とあります。なんだ、実際には敬われたではないか、と思われるかもしれません。しかし、その歓迎の中身が問題だったのです。歓迎の理由をヨハネは記しています。「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」過越祭のときに、彼らは主イエスの不思議なわざやしるしを見て信じたのですが、2章24節には「しかし、イエスは彼らを信用されなかった」とあり、その主イエスの思いが、ガリラヤに帰られたときにも続いていたということです。ですから、ガリラヤで歓迎されたのは、また不思議なことを見たいという思いはあっても、信じて従っていく弟子となろうとする思いを、その歓迎の中に見ることができなかったということでしょう。

 そして、ガリラヤのどこに行かれたかというと、46節に「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である」とあります。私は、なぜわざわざカナに再び行かれたのだろうか、と疑問に思いました。カナでの婚礼のときに、ぶどう酒がなくなってしまったときに、水をぶどう酒に変えてくださったのです。そのときには、主イエスに言われて空(から)の水がめを水で満たした召し使いたちしか知らなかったでしょうが、おそらくあとで、その奇跡の話は、水をくんだ召し使いたちから広まったはずです。再び行かれたら、また同じような奇跡を願う思いが起こってしまうのではと疑問に思ったのです。

しかし、このような疑問が起こるそこでこそ、立ち止まって黙想する必要があります。それは、あえて主イエス・キリストは行かれたのではないかということです。カナの町の人々のために、さらには私どものために、奇跡のしるしをなさった町に行かれたのです。それは、しるしや不思議な業(わざ)を見なければ信じないところから引っ張り出して、主イエスの言葉を聞いて信じる恵みに生かそうとされているのです。

そのことが、カナの町にやって来た、王の役人とのやりとりでわかります。46節の後半から読み返しますと「さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」

当時の地図による位置関係がわからない私どもには、カファルナウムからカナまで来たことが、隣町ぐらいにしか感じないかもしれません。おおまかには直線距離で30キロほどですから、普通に歩いて数時間かかります。必死に走るようにやって来かもしれません。

その父親に対して主イエスは語りかけられました。48節「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」のです。この御言葉は、必死な父親を拒絶なさっているのでしょうか。そうではないのです。しるしや不思議な業(わざ)を見なければ信じないところから引っ張り出して、主イエスの言葉を聞いて信じる恵みに生かそうとされているのです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのは、神の義の光に照らし出して裁いておられるのですが、そこから、聞いて信じる信仰へと導いておられる恵みの御業の御言葉でもあるのです。

父親は、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われて、なおも願いました。拒絶されているとは感じなかったのでしょう。むしろ、ほんとうに自分は、「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」者でしかないことが分かったでしょう。そして、そのことを認めてなおも、信頼の思いが芽生えて主イエスに申し上げたのです。その思いが49節の「主よ」という言葉に表れています。「主よ」とは、神への言葉でもあります。「役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った」のです。精一杯の全存在をかけた願いだったでしょう。

 主イエスは言われました。50節「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」父親がどう受け止めたかがすぐあとに続きます。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」

 「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」その人は、帰る途中で、息子の病気が良くなったことを、迎えに来た僕から聞くのです。そして、息子の病気の病気が良くなった時刻は、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを父親は知ったのです。(53)彼もその家族もこぞって信じたのです。(54)

 ヨハネの教会の者たちは、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」一人の父親のことを、どのように受け止めていったのでしょうか。当時、しるしとして死にかかっているような病気から癒やされたのはわずかだったでしょう。病気が根絶されたのではありません。主イエスも病気がいやされることが、とこしえの救いそのものではないことをご存じであったのです。私どもも、主に必死にあることが願い通りになるように祈ることがあるかもしれません。ヨハネの教会の者たちは、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と語りかけられた父親の話を喜んで聞きながら、愛する息子や娘との別れを経験している人々もいたでしょう。しかし「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と語りかけられた父親の話を喜んで聞くことができたのは、主の復活の命に生きる希望を抱いていたからではないでしょうか。ヨハネによる福音書は、救い主である主イエス・キリストが、私どもが受けるべき神の裁きを十字架の上でその身に受け、死から復活されて今もなお生きて導いてくださることを信じて記しています。

「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という御言葉は、神の恵みのなかで、たとえ死んでも生きるという、主の御言葉、神の言葉として聞くことができるのです。主は「帰りなさい。あなたの愛する者は生きる」さらには「あなたは生きる」と語りかけてくださるのです。「あなたは生きる」と語りかけてくださる主の恵みは、この地上で終わらないことを信じていきましょう。

 

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