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2025年8月31日(日)

聖霊降臨節 第13主日


礼拝説教「キリストが与える泉」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 4:1-26


<讃美歌>

(21)26,17,57,404,64,29

 

 旅をされる主イエスの姿があります。シカルという町のヤコブの井戸のそばで疲れて座っておられました。「正午ごろのことである」(6)とありますので、木陰がその井戸のそばにあったのだろうかと、暑さを避けることを心配してしまいます。ヤコブの井戸は、シカルの町から1.5キロほど離れていたと言われます。おそらく弟子たちは、シカルの町に買い出しに行っていたと思われますから、少なくとも主イエスが休むことができることを確かめていたはずです。あるいは、もしかしたら護衛のために一人がそばに残っていたかもしれません。

いずれにしても、ひとりの人が水を汲みに来たとき、主イエスはその人と向き合って、語りかけていかれました。主イエスとの対話を通して、そのひとりの人に信仰が生まれたのです。最初から信仰を求めて井戸に行ったわけではありません。しかし、主イエスが彼女を知っておられ、出会ってくださった、そして信仰を与えてくださったのです。私どものすべてをご存じである主なる神の姿がここにあります。ひとりの女性は、16節で「行ってあなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われて、彼女の生活が照らし出されます。それは神に裁かれたとも言えます。主イエスは「あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18)と言われました。どういうことが彼女に人生に起こったかは書かれていません。夫が次々と事故や病気で逝去して悲劇を繰り返したかもしれません。しかし、今いっしょに暮しているのは夫ではないのです。

そうであるなら、人目を避けるように暮らしたと思われます。正午ごろに水を汲みに来ることが、人目を避けている姿です。通常は、暑さを避けて朝早くか、夕方に水を汲むと思われます。また、ヤコブの井戸は、シカルの町から1.5キロほど離れていると言いました。通常は、シカルの町にある井戸で人々は水を汲んで、ヤコブの井戸は旅人や家畜のために使われていたと考えられます。

ひとりの女性は、ヤコブの井戸のそばに人が座っているので、最初は困ったかもしれません。しかも、サマリア人とは交流がなく、互いに信頼していないユダヤ人の、しかも風貌が教師の様でしたでしょうから、なおさら少し離れたところから様子を伺っていたのではと思います。しかし主イエスは、主なる神として、救い主メシアとして、彼女を待っておられました。

ユダヤ人は、エルサレムからガリラヤへ行くときにも、遠回りをして、サマリアを通らなかった。しかし主イエスはそうではなかったのです。ユダヤ人は、サマリア人をさげすんでいました。まことの信仰からズレた人々と見なしていたようです。歴史的には、元々仲間の同胞ですが、アッシリア捕囚のときに、異邦の人々が入ってきて結婚したために、純粋さが失われたと見なしたようです。中心的な礼拝場所もエルサレムではなかった。

しかし主イエスは、エルサレムであっても、別の場所であっても、場所にこだわることから自由にされていくときが来ることを、すでに来ていることを語りかけられました。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」(21)主イエス・キリストは、「わたしを信じなさい」と言われました。

 「わたしを信じなさい」という御言葉が、ひとりの人に信仰を生み出していったのです。主イエスは「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(14)と約束されました。「わたしを信じなさい」との御言葉に動かされて、彼女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシア(救い主)が来られることを知っています。」と応答します。主イエスは語りかけられました。「それは、あなたと話しているこのわたしである。」(26)

 彼女に、その魂に、主イエスの御言葉によって泉が与えられ、その信仰の思いがわき出るようになりました。人目を避けていた彼女が、シカルの町へ行って「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(29)と伝えたのです。「水がめをそこに置いたまま町へ行き」(28)とありますが、あわてて水を汲みに来たことを忘れるほどだったのでしょうか。そうかもしれません。しかしこれは想像でしかありませんが、「水を飲ませてください」(7)と言われた主イエスに飲んでいただくため、水がめをそこに置いて行ったのではないか。彼女を愛して導かれた主イエスは、私どもをも愛して導き、語りかけてくださるのです。

 主イエスはこう言われます。24節「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」「神は霊である」とは、目には見会えないけれども、聖霊として共にいてくださるということです。霊と訳されているプネウマは、風とか息という意味もあります。風は見えませんが、吹くと感じることができます。神の息は、私どもに信仰の息吹を与えて祈ることができるように、神をたたえて賛美をささげる礼拝の歌を与えるのです。

 しかし、「だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われると、どう思われるでしょうか。私どもを出発点にすると、果たして主が認めてくださるような、礼拝にふさわしい霊と真理があるだろうかと思われるのではないでしょうか。しかし主なる神である主イエスの御言葉として聞くときに、もうひとつの主イエスの御言葉と結びつくのです。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」霊である主なる神が、その御言葉の息吹を私どもに吹き入れてくださることは、恵みのうるおい、上からの水を飲ませてくださることです。そして、私どもに信仰の息吹が与えられる御言葉は、真理の御言葉です。御言葉は、単なる知識ではなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」のです。

 ですから、「霊と真理をもって礼拝」することは、主が備えてくださる礼拝に生きることです。真理の御言葉と共に、霊である神、聖霊が働いて、「わたしを信じなさい」といつも招いてくださるのです。主に照らされて裁かれるべきひとりひとりです。その裁きは恵みの光であって、神の愛に生かして、赦される喜びをもって礼拝する、信仰生活の泉に生かすのです。

 霊と訳されるプネウマは、息吹という意味があると言いました。礼拝において、私どもは息を使って、賛美をささげ、祈りをささげます。説教者は御言葉を語ります。その息使いの一息一息に、主の聖霊プネウマの息吹の助けがあって礼拝は礼拝となっているのです。聖霊の息吹は、真理の御言葉と共に働いて私どもの魂をうるおすことを信じていきましょう。

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