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2025年8月24日(日)

聖霊降臨節 第12主日


礼拝説教「天から来られる方」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 3:31-36


<讃美歌>

(21)26,6,52,296,64,29

 

今日与えられています箇所は、立ちどまってじっくりと味わい、聞き取るべき箇所です。決して読み過ごしてはならない言葉が語りかけられています。聖書の言葉には、すぐに心に飛び込んでくるような言葉もあれば、繰り返して読み返すように味わうべき言葉もあります。じっくりとなぞるように御言葉の語りかけに思いを深めていきましょう。

今日与えられています箇所は、洗礼者ヨハネが「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない。」(30)と語った言葉に続いています。あの方とは救い主イエス・キリストのことですが、なぜ主イエスが栄え、ヨハネは衰えていくか、その理由をこの個所に見ることができます。31節には「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。お気づきの方もあると思いますが、「上から来られる方」を「天から来られる方」と言い換えて、「すべてのものの上におられる」と2回繰り返して、「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」を挟み込んで強調しています。

天から来られる方は、そのもっておられるものの源が天にあるのですから、つきない栄えに生きておられるのです。「あの方は栄え」の「栄える」は、増えるという意味があります。その増え方は天に源泉があるので、つきないということです。そして、天から来られる方である主イエス・キリストは、主なる神としてすべてのものの上におられるのです。そのことをどんなに強調しても、言葉を尽くそうとしても足りない思いが、挟み込んだ繰り返しに表れていると思います。

洗礼者ヨハネにとってもヨハネによる福音書を書いたヨハネたちの教会にとっても、主イエス・キリストが自分たちを含めて、すべてものものを恵みによって導いてくださることを信じていたので、「天から来られる方は、すべてのものの上におられる」と喜びをもって告白したのです。そのお方に対して、自分たちは元々「地から出る者」であって「地に属し」、「地に属する者として語る」に過ぎないというのです。地にあるものはやがて過ぎ去り、いつまでも続かないという意味では、「衰える」のです。「わたしは衰えなければならない」の「衰える」は減っていくという意味があります。

私どもが持っているものは、地に属するものであって過ぎ去ります。しかし、過ぎ去らない上からのものによって私どもは支えられ、導れているのではないでしょうか。確かに私どもは、過ぎ去るものであっても、困難や病気に悩まされます。年を重ねていくことは、不条理に直面したり、何より自分や人の罪の根深さに心がよくない思いに満たされるようになって、何度主に祈り、赦しを願ったでしょうか。そのような罪深く、弱い私どもの上に主がおられて、神の愛をもって導いてくださることは慰め、救いであります。

さてこの個所は、新共同訳聖書では31節に新しいカギかっこが付いています。洗礼者ヨハネが改めて語ったと理解することができますが、当時のヨハネによる福音書を記した教会の告白として読むことができます。34節35節にこうあります。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」

ある神学者の黙想を読んではっとしました。ここに三位一体が語られているのです。私自身もじっくりと思い巡らす中で、主なる神の三位一体の中心には神の愛があることがわかりました。

「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」とあります。私どもは主イエス・キリストを信じて救われます。その主イエス・キリストは「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」お方であるので、父なる神そのものであり、御父が御子を愛された神の愛によって私どもを導いてくださるのです。キリスト教会の中身は何であるか、それは神の愛に導かれる礼拝共同体です。私どもの教会の営みの中心に神の愛がなければ、キリストの教会ではなくなってしまうのですが、その神の愛の源泉が地にはなく、天から来られる方、神がお遣わしになった主イエス・キリストにあるのです。私どもが主を信じて従っていくときに、神の愛はつきることはないのです。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」と、私どもも主をたたえて、神の愛に生かされていきましょう。

神の愛に対して、36節には「神の怒り」が語られています。「神の怒りがその上にとどまる」とは、元々人は神の怒り、神に裁かれる者であったということです。しかし、そこから神の愛がその上にとどまる恵みに生きるようにと、ヨハネはあえて「神の怒り」という言葉を用いているのです。

先ほど、三位一体が語りかけられていると言いましたが、御父・御子と共に、聖霊が語られています。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」とあります。“霊”とは聖霊のことですし、「神がお遣わしになった方」とは御子主イエス・キリストのことです。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」とは、とても重要な聖句だと思います。どうしてかと言いますと、主の御言葉と共に聖霊が働かれることがはっきりと語りかけられているからです。

私どもは主イエス・キリストを信じてキリスト者になりますが、主イエスは父なる神そのものであって、目には見えない主なる神を人として生きて見せてくださいました。しかし、人の元々の力では信じて受けとめられない救いを聖霊が助けて、信仰を与えてくださるのです。しかも、御言葉と共に働いて、信仰を与え続けてくださるのです。ですから、信仰を抱いて主イエスを信じるときに、そこに三位一体の神の働き、聖霊の導きを経験しているのです。あるいは、礼拝で御言葉を聞いて恵まれるときに、そこに聖霊のお働きが必ずあります。聖霊のお働きは、ある意味で分かりにくいのですが、神の言葉と共に働いて、いつも私どもを導いてくださるのですから、普段意識しない空気のように、欠かすことは決してできないお方であるのです。共にいてくださる主イエスそのものと言ってもいいのです。私どもは、気づかないところで主に支えられていることをもっと自覚していきましょう。自分には自覚できない主の働き、助けがあるということです。

「自分には自覚できない主の働き、助け」は、33節にある「神が真実であること」です。自分が助けられることのみを中心に捉えると、「神が真実であること」はとても狭くなってしまいます。主の祈りにあるように、「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈るところに、「神が真実であること」に生きる恵みがあります。33節に「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」とあります。「その証し」とは、主イエスの救いの証しのことであって、ヨハネによる福音書全体が語っている、主の十字架によって私どもの罪が贖われ、主の復活の命に生かされる救いが与えられていることです。「証し」という言葉が、のちに殉教の意味で使われるようになりましたが、主イエスこそが殉教者であるのです。そして「神が真実であることを確認したことになる」とある「確認した」というのは「確証した」という強い意味です。確かな信仰の告白を聖霊が助けてくださらなければ、だれが十分に主の証しを確証できるでしょうか。私どもの信仰生活を御言葉によって、神の愛に生かしてくださる聖霊の働きを信じて、深く主に信頼していきましょう。

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